(おのず)(から)(みち) 317 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))20

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

第二条祖恩を忘るゝことなかれ3

5)不孝の心の続き

(ぼたん)の掛け(汽車の乗り)違え

 学識はありながら、ちょっとした心の狂いで、西に行く汽車を東に行く汽車に乗り間違えてしまったようなものです。

 そこを境に、一生の間(ほん)(とう)の道に出ることが出来ずに迷ってしまうことがあるのです。

(筆者付加→現代人は、便利な文明の中で生活をしています。

 そこで、生まれた後(後天的)に身に付けた学識を、人間にとって生きるための一番の基本と思い違える事があります。

 しかし、生まれながら(先天的)に身に付いている、秩序・正義感・自主性や()(けい)祈り等こそが、最も大切な基本です。

 現代人は、後天的な文明や学識を万能と思い誤る、という落とし穴に(はま)りがちです。

 もし文明や学識に(うと)い人でも、基本が備わっている人は、道を誤る事はありません。

 親孝行は先天的な基本(神の(ことわり))ですが、何の勘違いか、文明・学識という後天的な基本(人の小さな理性)に打ち消される事があります。

 そうなれば、親孝行という、神の(ことわり)として

身に付いていた基本中の基本を、自らの小さな理性で打ち消してしまいます。

 その結果、釦の掛け違えとなり、前小見出しの*親不孝の見本のように、おかしな集団に取り込まれる事になるのです。)

 (あち)()にフラフラ、(こち)()にフラフラと良いと思う方向を目指してはいても、目隠しをして道を探すようなものです。

 そこで、本当は楽しいこの世の中を、迷い(注:)中に苦しむ事になります。

注:迷う=迷うの本言(ほんげん)(その言葉の持つ本来の意味)は、(まが)()び、で悪いものを呼び込む。

 こうした人達は、文字を覚えた(文明の甘味を知った)というだけで、人として生きて行く道を知らないのです。

 親に仕える事も(注:)(きみ)に仕える事も、神に仕える事も知らないから(注:)(けん)(ゆう)両方共に、守りを受ける(ことわり)が分りません。そうなると、気付かぬ内に神祖の徳を拒否をした形となり、守りを受ける事が出来ないのです。

注:君=天皇陛下の事。本教では天皇家が日本人、延いては世界の人種の本家であり、天皇陛下をその家長と受け止める。

注:顕幽=顕は、生きている世界。

 幽は、生まれる前、或は死後の世界。

(筆者付加→私達がこうした釦の掛け違えのようなことにならない為には、神と祖先を祀り、今生きている親には孝行を尽す事です。

 そして、親と先祖と神の力を戴き、身の罪を祓い、先ず自身が幸せを得て、その力で世の為人の為に尽す事を楽しみとしたいものです。)

*無神論

(筆者付加→無神論・無神論者について、時折触れる事ではありますが、本教ではどのように受け止めるのでしょうか。

 人は、祈り(神祖と心を通わせる・心に明りを入れる≒願い、とは若干違う)の心を生まれながらに持っている、と考えます。

 それは、自分の物心つく頃からの思いを振り返れば、直ぐに気が付くことです。

 しかし、無神論を信じる?という人は、この人間本来の心の持ち方を忘れ、或は無理にねじ曲げ・圧殺しようとしているように見えます。

 無神論と有神論の狭間に立った時、私達は、文明度や学歴もい、無信仰を主張する人を信頼するのでしょうか。

 それとも、例え文明度や学歴は無くとも、人類の叡智として積み上げられた、本能としての信仰を主張する人を信頼するのでしょうか。

 前者は、何か不運な事故にでも遭ったのでしょうか。青春期の不安定な時期等に、何かの拍子に変なものに取り憑かれたように、道を(たが)えてしまったのではないかと思います。

 人は本来、社会秩序の中で助け合う存在、と分っているのに、人や信仰に頼るのは格好悪い、と思い込んでいるようにも感じます。

 誰にも頼らず、孤高の人である誇り高さは見栄えが良く思いますが、実は安定感の無い危うい生き方だと思います。もう少し自然に肩の力を抜いて、意固地にならず、頼れるものには頼った方が楽なのに、と(はた)()に感じます。

 祈りは、人生を形作る太い線の一つです。

 そこで、私達が祈り(願い)を持っている事に気付いたら、当然そこには対象がある(はず)です。

 神道では、その対象が祖先であり、その大元が自然・神と捉えています。)

6)真の祖先祀り

*異なる祖先の祀り方

 ここで一つ申して置きたい事があります。

 本二条『祖恩を忘るゝことなかれ』について祖恩の大切さを説くと、

「祖先の恩を忘れてはいけない」と言われたのでと、早速家に帰って仏壇に線香を()、茶湯を供えようと思う事でしょう。

 そうして(おごそ)かに仕え奉るのは、とても結構に思えますし、その行為を否定はしませんがが、本教の教えからは外れています。

 それが本当に祖先が喜ぶ真の意味での先祖祭だと思うのは、間違いです。

(古神道である本教に伝わる正しい祀り方は、この6)節の最後に記します。)

*仏教と神道の祖先祀りの違い

 (そもそ)も仏教の成り立ちを見ても明らかなように、世の中に出家をした仏の子は存在しません。

 仏の子がいなければ、仏の親がいる(はず)もありません。

 それを、自分の祖先が仏であると思って仕えるのが、間違いの始まりです。

 こういうことを信じている人が、自然と家を()(たん)させ、古くから(つちか)われてきた国家の形態を(そこ)なうような人となるのです。

 元々、仏教の教祖である釈迦に、祖先が仏であるという思想等はありません。

 私達の祖先は仏ではなく、祖先の大元である大自然・宇宙なる神なのです。

 これは決して、本教だけを信仰しなさい等という我田引水の教えではありません。

 本教の教師・教信徒は、この(みこと)(わり)(神の(ことわり))を、よく究めていなくてはなりません。

 

     第二条6)真の祖先祀り(つづく)

平成29年4月号  No.1238   2017-4