(おのず)(から)(みち) 313 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

神道と古神道(()(きょう)(かい)は三月から再開します)

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 私達は、ヒンズー教や仏教や道教やキリスト教やイスラム教等と比べ、神道を心の中でどう想い浮かべ、(とら)えているのでしょうか?

 先ず宗教一般を私達がどう理解し捉えていて、そこから比較して、神道と古神道である本教を見直す方法が分かり易いかと思います。

 現代のインターネットで使われるクラウド=情報を貯えるを例えにしてお話しします。

宗教一般の(とら)え方

 多分多くの人は宗教一般を、有るのか無いのか分らないけど、何となく感じる雲のように受け止めているのではないでしょうか。

 主祭神をエホバとし、一神教に類別されるユダヤ・キリスト・イスラム教は、旧約・新約聖書やコーランという教典があります。

 キリスト・イスラム教には、キリスト・ムハンマド(マホメッド)という教祖がいますが、ユダヤ教にはいません。

 主祭神を三大神・元始天尊・如来とし、多神教に類別されるヒンドゥー教・道教・仏教は、ベーダ・黄庭経・経典という教典があります。

 仏教では最高仏を兼ねる、釈迦如来という教祖がいますが、その他にはいません。

 教祖がいるのは新興宗教で、多くは従来の信仰を否定、或は自身を主とし従来の信仰を従として習合します。

 日本の古神道や神道一般には、南米・東南アジア等のように今も残り、(あるい)は北米等のように細々とでも続いている信仰があります。

 又、ギリシア始め欧州・エジプト等のように(こん)(せき)(あるい)は痕跡に近くなった信仰があります。

 それでも世界の多くの地域では、新興宗教に抑圧されながらも、自然の教えは未だ消滅したわけではありません。

 時折お話することながら、神道では、私達を産んだ自然を大元の祖先・神と敬い、両親・祖父母を始めとする近しい祖先を尊びます。

 (いわ)(ゆる)、敬神尊祖の慣習です。

 言語のように、教祖ではなく、それぞれの民族が長い年月を掛けて叡智を積み上げて来た敬神尊祖の教えを『天造教』と言います。

 それを日本では神道と呼びます。

 一方、一人又は少数の教祖とその周辺の人が、過去の信仰を否定或は抑圧し、新しさを強調して創った教えを『人造教』と言います。

 日本の新興宗教の教祖は、世界のメガ宗教の教典や教祖と類似と相違点があります。

 幾つかの(そう)(しょう)宗教には、新しい神を創造し、それ以前の宗教・信仰を否定或は従属させるというメガ宗教との類似点があります。

 しかし多くは、日本古来の神や印度や中国、更には一神教の神仏とも習合させた、良いとこ取りという相違点があります。

 是等は、従来の宗教・信仰にも(こび)を売るというか、その信頼・影響力を利用した宗教です。

 是等は皆、それぞれに○○経や○○聖典等の教典があるのが普通と言えそうです。

神道一般の(とら)え方

 多分多くの人は神道一般を、前者の宗教一般よりもっと薄い雲のように受け止めているのではないでしょうか。

 主祭神も教義も教祖も無いからです。

 主祭神は、神社別にはあっても、神道全体として皆が認める神は決まっていません。

 教義は、一応『神典』があるものの、直ぐに教義・教典として使えません。

 神典は、古事記や日本書紀や延喜式等の詰め合わせで、戒律や生活の指針を具体的に示したものではないからです。

 教祖は、日本民族で醸成された『天造教』であることから、存在しません。

 そこで、是等が無い神道は、定義的には信仰の域に止まり、宗教でさえないのです。

 要は、他教には、ある程度確定した教えがあり、同じ雲でも、かなりはっきりと見えるように工夫された雲と言えそうです。

 しかし一般の人には教義の内容まで知る人は少なく、他教と神道は、濃い雲か薄い雲かの違いに過ぎなく感じる程度でしょう。

古神道である本教

 そうなると多くの人には、宗教一般も神道一般も古神道である本教も、そんなに違わない雲のように受け止めるしかありません。

 そこで、この宗教情報の雲に、ご一緒に手を入れて探って見ましょう。多分、神道一般は手応えが少く、握れば切れそうな、グニャグニャの棒のように感じることでしょう。

 次に、宗教一般は宗派によって違う物の、手応えはあっても(つか)み所のない、油まみれの棒のように感じることでしょう。

 そこで、本教はどのように感じるでしょう。

 簡易な説明ながら、先ず主祭神は日本最古の古事記所載の最初の神である(あめ)()()(なか)(ぬしの)(かみ)から(あま)(てらす)(すめ)(おお)(かみ)までの十八柱です。

 是を(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)と言い、霊魂を()()し、身体を形成下さった信仰の神です。

 又、(あわせ)(まつる)(もろもろ)(のかみ)の十三柱と最後の天神地祇はそれ以外の全ての神を指し、主祭神の命を受け、直接御利益を下さる神です。即ち、一神教と多神教を併せ持った教えなのです。

 古神道である本教も含めた神道は、多神教に分類されますが、本教は、そうした決めつけを受け入れる事は出来ません。

 一体何時、誰が決めたのでしょうか。

 そんなに大昔からでは無く、多分、近代の学者が建てた仮説を、鵜呑(うの)みにしただけの結果ではないかと考えます。

 多神教の神道もあるし、本教のように、そう捉えていない神道もあるのです。

 教義も一般神道と歩調を合わせながらも、八十一代に渡って受け継ぎ、積み上げられた教えが大系化されています。

 本教も含めた神道は『天造教』であるからこそ、教祖はいません。本教には、高祖・宗祖・先祖・遠祖・中祖等と、神道教義・布教の功績者が輩出される中で、教祖もその一人なのです。

 本教の教祖は、江戸末期から明治後期の、時代に合わせた教義・布教の大成者の一人であり、教義を創造した人ではないのです。

 他教の教祖とは意味合いが違います。

 そこで叡智の継続集成された古神道である本教は、安心して(しっか)りと(つか)む事が出来る、優しく力強い棒のように感じることでしょう。

 本教は天造教であり、()つ宗教一般にも神道一般にも無い教えが備わっているからです。

 同じ雲の中に存在するように見えても、本教は真の生活宗教でもあるのです。

 

平成29年2月号  No.1236   2017-2