御教誡十箇条(略解の詳解)23
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第二条祖恩を忘るゝことなかれ6
*子を持って知る親の恩
祖恩とは、漠然と感じるだけでなく、先ずその恩に、私達の両親も含んでいることに気付くべきです。
より身近な祖先を意識すると、祖先への漠然とした思いが、具体化して感じることが出来るし、それは大切なことです。
私達は、今はいない先祖には敬意は持っていても、えてして放ったらかしにして、打ち忘れがちです。
また、生きている先祖神である親には、いくら世話になっていても、自分の力に少しでも自信がつけば敬意も忘れがちです。
それのみか、うるさく思い、邪魔者のように感じる時さえあります。
昔より、『子を持って知る親の恩』等と言いますが、子どもを現実として持って、親の苦労や喜びを実感出来ます。
そこで初めて、親の子に対しての情も実感出来、ようやく親の心遣いや恩恵がより深く理解するものです。
今の自分の元は祖先であり、その大元は自然なる神です。
先ずここが理解出来ると、次に近くは親が無くては、自分が生まれることはない、という親の有り難さを再認識出来るのです。
*祖先から子孫への道を繋ぐ大切さ
神は、世の中に不必要な人は造られていないし、自分の力だけで生きて行ける人も造られていません。
神と祖先と親とからの恩恵は、顕幽(生きている今と、死して霊魂となった状態)を一貫して、私達の心身をお守り下さり続けています。
親の情とは、子どもへのなにものにも代え難い大切で愛おしく思う親心です。
その心は、この世を去っても終わることはなく、帰幽しても産須根神となって、子孫を守ろうとするのです。
祖先もその大元の神も、本質的に親と同じ愛情を、私達子孫に持たれています。
だから、神を祀るということは、それがそのまま、守って下さることへの感謝、即ち親孝行の始め、ということになります。
この第二条5)で述べたように、親から沢山の愛情と資産を掛けられて学問をしても、それが水泡に帰してしまう人もいます。
親から戴いた愛情を子どもに返して終り、という考え方は、親や祖先との繋がりの片道を閉ざしてしまうものです。恩恵は、親から貰うと言うより、親の親の祖先から、大元の神へと繋がる道を通って戴いています。
ここへの気付きを失った結果、そうした親不孝の大部分が、不幸な人生へと転落する要因となっているのです。又、自分の不孝が、それを心配する祖先の不幸になっていることにも気付きたいものです。
学識という世を渡る技術があっても、親孝行という人の道を歩む知恵が必要です。
学識という技術と、親孝行即ち先祖信仰という本能を知る知恵の両立が大切です。
そうでなければ、学識という技術があっても、親不孝という心の知恵の狂いが生じます。
そうなると、西に行く汽車を東に行く汽車と間違えて乗ったようなもので、一生の間、本当の道に出られず迷ってしまうのです。
*自然な神道での先祖祀り
この第二条6)で述べたように、「祖先の恩を忘れてはいけない」と言われたのでと行う、早とちりについて注意を促しています。
例えば宗旨が仏教だからと、折角本教を信仰しているのに、早速家に帰って仏壇に線香を焚き、お経を唱える等です。
悪いとは言いませんが、祖先の恩に報いるのに、本教の伝える神道形式で、神棚で行いましょう、ということです。
祖先を祀るのは、本来神道だということを学び気付けば、6)に記した方法で行うのが、自然で人間本来の道ということになります。
そうした祖先の心を忘れないためにも、人間本来の先祖祭を大切にしましょう。
(第二条終り)
第一条のまとめ1
第一条のまとめを、ここに記します。
9)まとめ(第一条の概略・筆者付加)1
*自然なる神の意思
神の心とは、罪を取り除いた人の心であることを、先ず認識・自覚しましょう。
神が万物を育て、人に人を生ませる道を伝えたのは、人に神の跡を継がせる為です。
又、この顕世(うつしよ=現実の社会・世界)を、幽世(かくりよ=神の世・日の若宮)と同じ、平和で充実した世界にしようとする意思です。
神はその正にして善なる心を形として現す為にこの世を造られた、と考えます。
神の心とは、この世を良い方へ良い方へと導く意思と言えます。
*神と人との違い
神は人の小さな理性では推し量れないほど、莫大な存在です。
人は大自然・宇宙なる莫大な理性である神から産み出された、神の子孫・理性を持つ者と考えます。しかし、人の霊魂は、余りにも小さいものですから、神と同質の霊魂とはいえ、罪に染まりやすい存在です。
それに比して、神は余りにも大きく、罪に染まることはない、と考えます。
この神の存在を、私利私欲の為に利用しようとすることは神に背くことです。
*神への気付き・信仰の基
神の存在に気付き、信仰が始まる、或はそれらを確かめる基は何でしょうか。
それは先ず、自分の存在を確かめることから始まります。正にフランスの哲学・数学者デカルトの命題『我思う、故に我あり』です。
次に、自分を生み愛情を掛けてくれた、両親や祖父母等を意識することです。
そうすれば、その大元に神が存在することに、漠然とでも気付くことでしょう。
次に、もし子孫がいれば、自身の子孫を愛し守ろうとする心を意識し、自然の厳しさと共に暖かさを感じることが出来るでしょう。
子孫とは、自分の子どもでなくても親族もいますし、それが無くとも、社会や信仰の後輩でも良いのです。
次に、反対方向の、自分を生み愛情を掛けて下さった、両親や祖父母等を意識することです。そうすれば、その大元に神の存在を感じられることとなります。
自然への畏敬や、祖先の心への尊重という、人の心を素直に持てれば、神の存在やその心に気付く事が出来るものです。
第一条9)まとめ(概略)(つづく)