(おのず)(から)(みち) 322 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

神道に教義は無い、か?

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

 御教誡を今月まで(四回連続)お休みして、表題についてお話しします。

 明治13(1880)年に、先ず神理教会の開教を達成された御教祖が、伊勢神宮に参拝された時の話です。その前に、少し当時の宗教事情で関連する部分をお伝えします。

江戸時代の宗教・神道政策と勘違い

 古来、日本の葬儀・(みたま)(まつり)、氏族制度の名残を引き、祭政一致の氏神や族長が行った流れから、家長や本家や村長が行ってきました。

 経済的にも神官や僧侶に願う家は少なく、多くは古来の神道形式で行われた事でしょう。

 江戸時代に入り、幕府はキリスト教の(はい)(せき)を名目に(てら)(うけ)(せい)()といって、神社の神主・家族でさえ仏式の葬儀を強要します。

 始めは神社請制度を行う藩もあったようですが、直ぐに禁止されます。

 それは、本当の目的が、天皇家と国民の心の距離を少しでも遠ざける為、だからでした。

 歴史を振り返れば、平家も鎌倉幕府も、一時的には天皇家を抑える事が出来ながら、最終的には勤王が反抗の根拠となります。

 神社が栄えれば、嫌でも天皇家が意識され、再び勤王・反幕に繋がる可能性が出て来ます。

 その事を危険視した徳川幕府は、天皇家に繋がる神道の排斥を、出来るだけさりげなく、寺請制度により行ったのでした。

 少し大きな神社には神宮寺が建立され、神官は僧侶にその実施を監視されます。

 当時の神道人にすれば最大の屈辱ですが、幕府の威勢に(あらが)うことは出来ません。

 一般民衆は、日本人の習俗である葬儀・(みたま)(まつり)(法事)が大切なので、その手法(宗旨)が変わっても、大きな抵抗はなかったようです。

 それどころか、太古の昔から仏教徒だったのだ、との勘違いをすることになります。

 生かさぬよう殺さぬよう、神社は最小限の補助を、有り難く受けざるを得ません。

 そうした神主の中には、死を扱うのは穢れた仕事を行う僧侶に任せればよいと、(ねた)負け惜しみのように、言う人もいたようです。

 しかし、これも現代にも影響を及ぼしている、大きな勘違いです。

 自他を(いた)める位に悲しみ過ぎることはでありながら、“死”自体は、決して“罪”でも“穢れ”でもありません。

 本教の言霊学では、“死”は()()()ぬるで、神に添う霊魂の火が、大元の神の元に帰る事で、悲しいけれど有り難い事です。

明治時代の宗教・神道政策

 明治時代に入り、政府の宗教・神道政策は、(ちょう)(れい)()(かい)の改変を繰り返します。

 神道は飼い殺しのような徳川幕府の政策から一旦開放されながら、“神社神道”と“教派神道”に別け、又管理下におかれます。

 明治政府も支那等で、宗教団体が反乱を起

こす例を見て、その抑圧を目指すのです。

 国務機関となり資金補助を受ける“神社神道”は、仏教界からの運動もあり、布教一般国民への神葬祭を禁じられます。

 当時の“神社神道”は、仏教界の立ち回りが上手だった事も有り、自分と家族は良いものの信奉者への葬儀と布教が禁じられました。

 国家宗教である“神社神道”の神官は、公務員に準じるから、葬儀と布教を禁じるという、釈然としないルールが出来たのです。

 そうして、葬儀と説教は仏教のもの、という江戸以来の慣習が、再び開始されます。

 一方、民間団体で資金補助を受けない“教派神道”は、その二つは自由なのでした。

 そこで伊勢神宮や出雲大社は、神社とは別に、神宮教・出雲大社教を作り、布教と葬儀を行う権利を保ったのだと思われます。

 当時は伊勢神宮にも、神宮教という、“教派神道”がありました。(後に、神宮奉賛会という組織に発展解消されます。)

教義がない、と思い込む人達

 教派神道と名乗ったからには神葬祭と神道布教をすべきですが、当時の(現代も)神職は、これを苦手とする人が多かったようです。

 神社・日本民族には『(こと)()せず(自分の意思をはっきりと声に出して言わない)』という判断基準とか精神性があります。

 ただ、それは平安時代に解消されたようですが、徹底しなかったのか、今でもそれを理由に神道の教えを伝えない神官もいます。

 神道一般は伝えも人脈も幅が広く解釈も多

様で、仏教のように結集して、教義として(まと)める事が、未だに出来ていません。

 まあ、他教のように明確な教えとして捉えられる人が少なく、それを教義がないと悲観して捉えている神官もいるのだと思われます。

神宮での出来事

 そこで御教祖の話に戻ります。

 神宮に参拝の折、神宮教の講話を聞く事となり、その終了後別室に誘われ感想を聞かれます。

 御教祖が、講話に儒教の教えを引用したことについて理由を問うと、前述のような、神道に教義がないから、との応えがありました。

 御教祖は憤慨してその非を(ただ)し、問われるままに本教の古神道の教義を述べます。

 なるほどと思った人もいたでしょうが、反発した人もいたようで、別の機会に述べますが、神宮神璽の授与拒否問題の遠因にもなります。

神道の教義とは

 神道の教義は漠然としているようで、太い線があります。それは、敬神尊祖で、それを人間の本能である“祈り”で支えています。

 筆者はそれで十分だと考えます。

 加えて、これも漠然ながら、()(わか)(みや)((あま)()(みくに))や黄泉の観念もあります。

 誤解を恐れずに言うならば、その他の教祖のいる宗教の多くは、これを真似して教義として整えただけだと考えます。

 しかも、この基本的(プライマル)な考え方を脅しのように拡大解釈し、独尊の為に否定、或は(すい)(じゃく)(主従逆転)させています。

 これに対し、本教は御教祖迄でも七十七代を重ね、神道の素晴らしさを保持・教義大系への発展・生活への活用を図る組織です。

平成29年10月号 No.1244  2017-10