御教誡十箇条(略解の詳解)15
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第一条神の心に背くことなかれ14(筆者付加)1
今(H.28)年の夏期講習会は、お陰で80人 近い参加者で賑わいました。
初参加の方も多かったので、神の存在や 死後の世界の考え方についての文章をお土産にしました。
今月は、その文章に若干手を加え『神の心…』の理解に資すると伴に、神や信仰への親しみや死への恐怖の解除になればと思います。
*信仰の効能
筆者は若い頃、脳天気にも『悩みが無いのが悩み』等考えていた時期がありましたが、仕事や家庭を持つと、悩みは尽きない物です。
本教のある教師の方と互いの悩みについて話していた時に、
「父も教師としてあれだけ人助けをし、徳を積んだにも関わらず、私と家族はこれほどの悩みを負い持っています。
と言う事は、まだまだ信仰に励まなければならないと教えられているのだと思います。」と言われました。
筆者は自分もそう思うべきだと考えると 共に、これが信仰の効能だとも思いました。
不幸と思える事象に、心を折られる事無く前向きに捉えられるのです。
『これだけ信仰をしても、どうしてこんなに苦しい思いをしなければならないのか』と 不満を言うのとは反対です。
『これ以上ないような不幸を抱えていても、まだまだ信仰を重ねよう』と前向きに考えられる、心の捌き方を素晴らしく感じました。
又、別の教師が『出来ぬ修行は下されぬ』を口癖のようにしていたのも思い出されます。
神から信頼されたからこそ、負えない人に替わってその重荷を受け持っているという、自負を持った受け止め方です。
又、例えば障碍者が居る家は、その人が 家の罪を替りに負ってくれたのだから大切にするのが当たり前、という考え方もあります。
まあ、他人には重荷と見えても、私達としては心掛け次第でハンデ付きの競争遊技のように考える事も出来るものです。
信仰という言葉は、明治に入ってから使われ出したそうですし、宗教も新しい日本語と聞き及びます。
一般には死語となりつつあるように感じられる祈りが信仰・宗教の原点であり、祈りからこうした前向きな考え方が生み出されます。
親の親のその又祖先の大元の神・自然に向け祈る(神の明りを入れる)事で不幸をも押し除け、生きる力が自然と湧き上がるのです。
*神は存在するか
・神の存在
私達は年齢により体験により、又、文献や信頼する人の話から、常にその存否について、心が揺れるものではないでしょうか?
もし神に会った人が何人もいると言っても、人類の数からすると極僅かです。
もし神の存在が科学で証明されたと言っても、それを認める科学者も僅かでしょう。
現在の時点で、神の存在も不存在も論理的・科学的には証明出来ません。
*死後の世界は有るか否か
それは、死後の世界の存否にも、同じ事が言えます。
死後の世界は、一旦死んで戻って来た人はいないのだから、誰も見ていません。
臨死体験の有る人が見たと言っても、本当かどうか証明出来ません。
もし霊能者が在る!と言っても、感じられる人は極僅かです。
ましてや宗派や人によって天国・極楽・高天原・日の若宮、又地獄・煉獄・黄泉と名前は勿論形状も違うのであれば、混乱するに止まるのが現状です。
現在の時点で、死後の世界の存否を論理的・科学的には証明出来ません。
そこで次に宗教一般と神道一般と本教の、三つを比較して考えて見ましょう。
*宗教一般の大まかな考え方
全ての宗派に、大まかな感覚の共通点があります。
・神(仏)の存在・成り立ちについて
民族が守り神として崇めてきた物や、教祖がその心の中で創った神仏があります。
神道一般も、多神教と受け止めている人達には、民族の守り神と考える前者の部類に入るでしょう。
本教の教義は後で述べるものの、一神教や多神教という考え方とは一線を画していますが、民族の守り神とも捉えます。
従って、見た目には共通点があります。
・死後の世界について
多くの宗教では、信仰と共に善行を積んだ人は、死後は楽しく嬉しい良い所へ行くと考えます。
又、信仰が薄く悪行をなした人は、死後は苦しく辛く悪い所へ行くと考えます。
本教の教義は後で述べるものの、この部分だけを比べるのならば同じです。
従って、見た目には共通点があります。
是等の点では、宗教一般と神道一般と本教はそう変わらない様に見えます。
しかし、それらは最初に挙げたように、 論理的・科学的に証明出来ません。
では本教の教義で、神の存在や死後の世界を、どう捉えているのでしょう?
本教にこそ、答えは在ります。 (つづく)