(おのず)(から)(みち) 308 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))14

               

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

第一条神の心にそむくことなかれ13

6)(ほん)(とう)の神(()(がみ))とは

・無意識と勘違い

 世の中には、神の存在を意識しない人や、考えてみようともしない人が多数です。

 神の存在へ少し意識を向ける人でも、(ほん)(とう)の神というものを知りません。例えば

『人が亡くなって(まつ)られたのが神であり、 それ以外に神は無い』等と言う人もいますが、それは逆であり勘違いです。

 先ず全てを主宰する()(がみ)があり、()(がみ)から(わけ)(みたま)戴いた神の子孫が人なのです。

注:古神道の教えを受け継ぐ本教では、真神とは(あま)()(かみ)(てん)(ざい)(しょ)(じん)を指す。亡くなった人の霊魂

も神だが、生きている人の霊魂も神であり、 生死に関らず、全ての物に神は宿ると(とら)える。

 こうした勘違い・思い込みに異様さを感じる。

 神へ意識を向ける人の層が薄く、又(あや)しげな 教団の解釈を鵜呑(うの)みにするのが原因と考える。

・神の(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)

 御教祖は【神理学入門】で、神の名称の  由来(=(ほん)(げん))を次のように伝えています。

(あめ)(つち)(いま)(ひら)ざるの時、(たい)()(そう)(びん)にあり。その()()てるを神となす。

 ()れ((あめ)())()(なか)(ぬしの)(かみ)()(てん)じ・()ちを(つづ)むるの()()(ごん)(あわ)せて(かみ)となる』

 神とは『()(てん)じ・()ちを(つづ)めた』言葉、 (すなわ)(いき)≠ニ()ち≠ニを併せた言葉が、 気を持つ物、(すなわ)神ということです。そこで、世の中に満ちている全ての気を(しゅ)(さい)しているのが、(ほん)(とう)の神ということになります。

・私達の位置(筆者付加)

『魚は自分が水の中に住んでいることを知らない』という言葉があります。

 私達も大気、()いては神と祖先の守りの中に住んでいることを意識しない、又は考えても見ない人が多数と言えそうです。

『当たり前』の対語である『有り難い』という感謝に思い到れば、自分の位置を見直すきっかけが出来そうです。

 無論()(ろく)()(ちゅう)意識している人もいないでしょうが、無意識から意識の世界へ、少しでも浮かび上がりたいものです。

(ほん)(とう)の神

 (ほん)(とう)の神とは、世の中に満ちている気を 一握りに主宰する大自然、()いては宇宙です。

 万物を生成する大気であり、私達が毎日吐いて吸う息なのです。

 この息があって万物に生という物があるので、命の(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)(いき)(うち)、即ち神の(ふところ)内ということです。

 神は人が生きているのか死んでいるのか分らない程熟睡している間も、その体から離れることなく守って下さいます。

 この神こそが(ほん)(とう)の神なのです。

 いつも神から守って戴いていることを感じられれば、神に対して感謝(注:当たり前の  反対)という貴い気持ちが湧いてきます。

7)第一条の主意・信仰の神と敬愛の神の違い

(しゅ)(さい)(じん)(はい)()(じん)の違い(筆者付加)

 (しゅ)(さい)(じん)(はい)()(じん)もう一段上の善への意識神とも言え、ある意味象徴的な大元の神です。

 本教では、(れい)(こん)()()((こと)(あまつ)()(はしら)(のかみ))と身体 (ぞう)()(()(ぎょう)()(はしら)(のかみ))の、具体的にも大元神です。

 (しゅ)(さい)(じん)とは(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)、至高の意志を 持つ神、配祀神とは(あわせ)(まつる)(もろもろ)(のかみ)で直接御利益を下される神です。(はい)()(じん)は私達の先祖神を含む、より近しく親しめる神と(とら)えます。

 本教の教信徒は天在諸神を主祭神・万神の根元と尊崇・信仰し、配祀諸神を配祀神(他教の神仏も含む)・守護と頼り・敬愛します。

(あま)()(かみ)(くに)()(かみ)の違い

 (ほん)(とう)の神は、神社一般に(まつ)られる、農・工・商業や学問・病気・開運等に御利益のある神とは違います。

 主祭神と配祀神の違いのように、(あま)()(かみ)(くに)()(かみ)区別を明らかにして信仰すべきです。

 信仰は(あま)()(やしろ)(うやま)(とうと)のは(くに)()(やしろ) (他教の教会・寺院も含む)です。

・第一条のまとめ

 (あん)(しん)(りつ)(めい)を祈るべき(ほん)(とう)の神というのは、成る(=根・在る)という意志を持って天地を造られた(あま)()(かみ)於いて他にはありません。

 天地の親神は(くに)()(やしろ)の神や私達人間も含めて、全ての物を産み造られた神ですから、大元の一番尊い神です。これが本教の主祭神である(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(てんざいしょじん)なのです。

 この神の御心に(そむ)ことなく人の人たる道を尽させたいというのが、『神の心にそむく事なかれ』という言葉の主な意味です。

 

・神と人の関係(筆者付加)

 人の人たる自然の道とは、神を敬うという事で、それは次の本教大意に明らかです。

『…心を(なお)く、行いを正しく、親によく仕え、兄弟の仲睦まじく、夫婦(やわ)らぎ、(えき)()(かん)(ぎょう)(おこた)る時なく、世の為人の為に善き事をなす…』という人として普通の道を歩むことです。

 私達はユダヤ・キリスト・イスラム教等、 一神教の影響か、人は神の命令で働く奴隷のように勘違いしているのではないでしょうか。

 奴隷のように受け止めると、これも自然と反抗心が()上がり、近くは社会や親を信頼出来ず、無益な争いを起こす事になります。

 争いは心を乱し、心の乱れは体調を(くず)し、体調を崩すと心も乱れるという、悪循環に()ち入ってしまいます。

 本教の(こと)(だま)(がく)で言うと、心の乱れは悩みでその(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は、 脳・()で、言わば脳の病気です。次に体調を崩すのは()でその本言は、()()で、神と祖先からの徳が止まった状態を言います。

 罰のように病気を与えられたのではなく、神徳(=運気)が届かないから病気を()ね返せない、と考えます。

 古神道の教えを受け継ぐ本教は、人は神の(わけ)(みたま)(ぶんれい)・神の子孫と考えますから、神の使いっ走りのように受け止めません。

 神の分霊ですから神と祖先と親と私とその子孫に至る迄、実は家族も社会も皆が幸せになるという目的の方を向いているのです。

 例えば親と意見が合わないと言っても、それは方法論に過ぎないことに気付き、心を合わせて前に進んで行きましょう。 (第一条終り)

平成28年8月号  No.1230   2016-8