平成28年7月号  No.1229   2016-7

 

 

(おのず)(から)(みち) 307 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

 

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))13

                

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

第一条神の心にそむくことなかれ12

4)人の心の浅さ

・素晴らしい教師や教信徒(筆者付加)

 素晴らしい教師や教信徒は、ご自分は勿論社会や家族の安心の為に、苦労を重ねる中から楽しみを見出せる人です。

 人々の病気・災難・不安を祈りや言葉で祓い(いや)すことで、同時に祖先と自分の罪を(ほど) 徳を積む事が出来る人です。

 しかし、罪を犯しても祖先や親の徳で(しの)ぐ人がいるように、徳を積んだからといって、全く罪が無くなったとも言えません。

 例え名家と言われる血統であっても、その先祖には大きな積徳の人も、その分大きな積罪の人もいるのです。その祓いきれない罪の方が何かの拍子で現実に現れる事もあります。

 そこで徳と罪の大小に関わらず油断大敵で、慎む心を常に忘れてはなりません。

 まあ、莫大な(かみ)(ごと)に比べ人の智恵には(おのず)(から)限界があるのですから、細かな事は気にせず、本教の広く大きな道を進むのみです。その心は必ず、自分を含む社会の幸福に(つな)がります。

 

・教会長・教師の子孫の行く末(筆者付加)

 立派な教会や素晴らしい教師の子孫に、 一旦本教から離れても、高い社会的地位等を得て活躍する人をよく見かけます。

 第八条の家業…でも触れますが、現代は 農業や商工業等、家業を継承する人の割合は小さくなりました。そこで、家業のように  心を継承するには、信仰が家業の替りの役割を果たすように感じます。

 筆者は、もし家業を含む教会や教師を継承することがなくとも、この意味で信仰は是非受け継いで頂きたいと祈念するのです。

 いくら社会的に成功しても教えが伝わらず、教会や家の神殿やお墓が荒れ果てている、ということになっては、祖先が悲しみます。

 祖先が悲しんでは子孫を守る事が出来ず、一時の勢いがあっても(やが)て止り、又下根(困ってから)の信仰から始めることになります。

 それどころか、信仰を忘れ、又信仰に不信を持ち、又本教ではなく別の妖しげな宗教に取り込まれることも考えられます。

 一時の勢いとは自分の力ではなく、祖先の徳だった事に気付かないのです。

 決して親の七光りは恥ずかしいことではなく、(やが)中根・上根の信仰から始められる、 目に見えない徳の遺産です。

 どの時点でこれに気付き感謝と共に実践に移せるかですが、それも人には計り知れない神と祖先のお計らいなのかも知れません。

 しかし、この神の(ことわり)を知り、心の準備はしておきたいものです。

 

5)神の導き、お返し

・困った結果

 例えば、朝には学者になりたいと思っても、夕方にはその意志を忘れてしまうような浅い心掛けから、身を持ち(くず)す人がいます。

 例えば、試験に落第し学費を無くす等して投げやりになり、目先の刺激に引かれます。

 そこで過激な人達の仲間になって、一生を誤ってしまう人もいます。

 学業が進ます、(たま)(たま)の事故や失敗に希望を見失い、反社会的な行動に走るのです。

 お金持ちになりたいと思っても怠け心から一攫千金を望み、例えば相場に手を出してしくじります。

 買えば下がり売れば上がる、というように思う事が裏表となり、自暴自棄となり、結局先祖伝来の資産を失うことになります。

 そこで、我が身の置き場所に困り、心も体も路頭に迷う人もいます。こうした人は、  世間に沢山いることでしょう。

 是等は、神と先祖の守りを忘れ、或は捨て去ってしまった結果です。

・自然なる神の救い

 自然なる信仰は神の教え祖先の願いで、 順を踏んで祈れば、願わすとも(かな)のです。

 手を洗ってから食事を()るのと同じで、 祓ってから神徳を戴くという手順があります。

 それ以前の信仰をうち捨て目先の目的を 得ようとするから、祖先はその目的を奪うことでお知らせ下さるのです。

 

 又、奪うのではなく、無信仰→罪に染まる→神祖からの助けが届かない→小さな災難にも耐えられない、という悪循環とも言えます。

 祖先は夢や病難を通して子孫にお知らせを下しますが、神は()らしめ(罪犯している事を知らせ)ます。真性の神は罰っする事すらなく、人が自らの罪によって、結果的に守護を拒否する事で守られない形になっているのです。

 どちらにしても、こうした人達を神が放っておくかというと、そんな事はありません。

 神は教祖のような偉人を世に出され、その教祖が道を説き、段々と神の心に近づけようとして下さいます。

 又、教師が教祖に引き継ぎ道を広めるのは、

『迷う人を導き正して救う』という、神から戴いた天職を帯びているからです。

 私達は、全ての物を良くするという神の心を知ると共に、自らが世の中の人を良い方向に導くべきです。

・生きる意味(筆者付加)

 私達が生きているのは、自分の為のみでなく、互いに助け合い、皆が幸せになる為(此の世を神代とする)である事を知りましょう。

 私達は良い方へ導かれながらも、後から来た人に手を差し伸べ、共に助け合いながら進んで行く者です。

 後から来た人へも、自分が戴いた良い物が同じように戴けるよう教え導く事が、神からの恩をお返しすることになります。又、同時に自分の徳にもなるのです。   (つづく)