御教誡十箇条(略解の詳解)9
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第一条神の心にそむくことなかれ8
2)神様の存在を知ること7
3)神の守りに入る前に、左の見出しに添いもう少しご一緒に考えたいと思います。
・祈り・信仰・宗教(筆者付加)4
12月予告した宗教の前に、死生観-6についてご一緒に考えたいと思います。
-6人は死んだら終わりか2
6.自然の死生観・本教の始原
死後の世界を見て帰って来た人はいませんから、神仏や霊魂の有無については誰にも 証明出来ません。では、1.本教(=古神道)の 死生観は、誰が創った考え方でしょうか?
人は死んで終わりではなく霊魂を持ち、その大元に神が在るという着想(アイデア)は、何処の宗教や教祖が言い出したものでもありません。自然の死生観であり、同時に本教の始原でもあります。それは、宗教発生以前(祈りと信仰の時期)に、近親者の死をどう受け止め、どう癒しに導くかについて、村落や民族で世代を越えて形作られた叡智の集積です。
それをどこぞの教祖が考えた、と勘違いすると無用な疑いが生じます。
天国や地獄の観念や天地創造の着想(アイデア)も、この辺りで形成されたと思われます。
こうした思考の経路を確かめながら、信頼の足場を自身でも踏み固め、自分なりの考え方を形成し、近くにあれば教えや人を活用すべきです。
7.自然・天造教と人造教の成り立ち
人には生まれつき祈り・信仰と同じく、秩序感・正義感・自主性等が教えずとも本能的に 身に付いています。社会環境がこれを磨き、或は劣化させると考えます。
是等の自然の感性が、或時は神仏や霊魂の存在を意識し、或時はそれらを否定しながら、長い年月を経て納まった考え方の一つが神道です。
勿論それは日本民族だけではなく、世界の至る所で発達し、それぞれの村落や民族で形成された天地創造や霊魂や天国・地獄観等は、とても似ています。
そして日本には、形や教えとして太く遺されている神道、延いては古神道があります。
飛躍し過ぎた考えと思われる向きもあるでしょうが、本教はそれを自然と考え、天造の叡智の歴史を通じて伝えられた【神からの 教え・自然の道】と捉えるのです。
本教に伝わる皇祖→饒速日命→物部→ 巫部家の教えは、一般神道と平行或は交流し乍、独自にこの教えを深めて来たものです。
しかし、人が造った宗教は、この世界中に派生した観念をいいとこ取りに利用しながらも、全面否定したことから、日本以外は痕跡程度になっているのは残念です。
8.まとめ
1.本教(=古神道)の…・2.他教の…・3.無神論者の死生観の考え方は、今後も大きな人類の叡智の流れの中で、多分本教を中心に、より普遍的な叡智が形作られて行く事でしょう。
霊魂や神仏の存在が信じられない、という人に伝えたいことは、
《自然の教えの存在に心を向け、宗教以前の損得のない素朴な良心に編み出された癒しの手法を、1.本教の…・2.他教も勘案・比較しながら、先人達と同様にそれを信用して活用する方が楽ではないですか》ということです。
少し厳しく言うと、
《安易な無宗教・不信仰の宣言は、自分を生んだ親・祖先の存在を否定し、その世話にもならず、延いては子・孫の世話もしない、という 本心と矛盾した非人間宣言》と同じです。
自己(人造)教から自然(天造)教に、自分の心を保ち・比較しながら目を移す事で、自分 一人では気付かない不合理が整理されることになります。
信仰・宗教は言語と同じで、決して一人や 少数の教祖に創造出来る物ではないのです。
最後通牒のように神仏を信じるか否かを 自分勝手に作り出して迷ったり反発したり するのではなく、それ以前にこの素朴な考え方が受け入れられるか否かなのです。
本教は、これが自然の伝えである故に、
神から伝えられた教えと受け止めます。
『本教の教えに帰依せよ』というのではなく、『本教の教えを活用し、死への癒し・安心を 基に、充実した人生を切り開きましょう』と
いうのが本意です。
決して人は死んだら終わりではなく、村落・民族の叡智に添い、永く天地に逍遙して、 子孫の繁栄を見守ると受け止めます。
-6人は死んだら終わりか 終わり
-7宗教の成り立ちと変遷(筆者付加)
(人造教と天造教の違い)1
宗教を見分る視点の 救い(奇跡)
3点が
保たれているかです。神道は生の方が死に 優先する、と言われます。もし御先祖が罪に染まっていても、御先祖自身の反省は不可欠ですが、子孫の祓いが無ければ罪は解けないと考えます。遺族に慰霊(四魂の安定)と癒しについて、確信に近い安心を頂いているかどうかです。
1.宗教の捉え方(本質・基本)
宗教は人の本性としての祈り(個人・家族・地域・民族)が叡智の集積と共に様式化し→ 精神文化としての信仰となり→それが世俗状況に対応した在り様とも言えます。
全ての宗教はこの祈りと信仰とを元とすると考えられますが、宗派によってはこれを 否定し、教祖或は教祖の示す神が全てを創造したとする教団もあります。 つづく