御教誡十箇条(略解の詳解)8
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第一条神の心にそむくことなかれ7
2)神様の存在を知ること6
3)神の守りに入る前に、左の見出しに添いもう少しご一緒に考えたいと思います。
・祈り・信仰・宗教(筆者付加)3
先月予告した宗教の前に、死生観-6についてご一緒に考えたいと思います。
-6人は死んだら終わりか1
1.本教(=古神道)の死生観
本教では人は[死ねば終わり]、とは考えません。先ず、神から霊魂を賦与(分け戴く)され、母の胎内に命を持ちます。そして善行を積み罪を祓った霊魂は帰幽(=死)した後、
『その気は軽く神の世界に浮き昇り、先祖となり、子孫の守りを楽しむ』と考えます。
注:罪=本言(その言葉の持つ本来の意味-言霊学)は《包み・隠す》で他人に言えないことを溜め込むことが罪(=苦しみ)となると考える。本教では七罪(怠・詐{嘘}・貪・憤・慢・憂・怨)が挙げられる。
注:神の世界=神道一般では【高天原】だが、本教では、正式には太陽を連想させる【日の若宮】という。本教では、高天原は日の若宮・現世・ 黄泉の全てを指すと伝わる。
日の神、即ち大元の神(天在諸神)の座し処。
他に伊邪那岐命・天照皇大神・直日神等が座すと考える。
注:神の世界に昇る=神の世界でから現世に生れた人は、死ねば又神の世界に帰ると考え、帰幽とも言う。
又、悪行が多く罪を祓ってない霊魂は帰幽(=死)した後、
『その気は重く黄泉の世界に沈み降り、先祖となるが、子孫の守りを楽しめない』と考えます。しかし本人の反省と子孫や教友の祈願と祓いで、元の神の世界に昇ると考えます。
注:黄泉の世界=神道一般でも同名。月や地の底を連想させる。本教では、罰を受ける処というより、自分の罪を指摘され反省する処。
黄泉の神、即ち伊邪那美命・月夜見神・禍津日神・大国主命等が座すと考える。
本教には霊魂観(=四魂論)が確立し、これを活用しながら、死後は先祖となって子孫や社会を見守り、終わりのない役目を楽しむ為に何をすべきか、の教え・心得が伝わっています。
例えば葬儀・霊祭(=先祖祭)での、四魂安定の為の祭式・祝詞・教話等です。
一般神道に伝わる死生観等より、若干整理洗練されています。こうした教えが何故・何処から・どうした経緯で成立したのかは、来月号の6.と7.で述べます。
2.他教の死生観
・1本教は例えば仏教のように、死後は悟りを求めて他の生き物に生まれ変わる(輪廻転生)、とは考えません。又善い事をした或はお題目を唱えた人は極楽で幸福を得、そうでない人は地獄で苦しみ続ける、とも考えません。
・2又、キリスト教のように、善い事をし且つキリストの復活を信じる人は天国で幸福を得、そうでない人は地獄・煉獄で苦しみ続ける、とも考えません。
・3又、儒教や上座部(小乗)仏教のように霊魂の存否に関知しない、とも考えません。
3.無神論者の死生観
無神論者といっても、その範囲は多岐に分れるので、全てを論じ果せませんが、霊魂や神仏の存在を信じないという人は現代に多くいることでしょう。
しかし、そのような人達も、例えば近親者が亡くなった時には癒しを求めるものです。
その時、霊魂の不滅を称えお金稼ぎや勢力拡大が目的の一つと考える宗教に一切頼らず、例えば死んだら全て無に帰す≠ニ決め、癒しの方法論を自ら構築するようです。
気丈な心構えは尊重しますが、余程悪徳な宗教法人の事例に接したのかと気の毒に思いますし、確かに先祖ぐるみで欺されていると感じる事例も見聞きします。
4.勘違いの慰霊と癒し
人によっては死者や祖先への慰霊と自分や家族の癒しの方法として、例えば霊魂は灯籠流し等をする人もいます。
又、お骨は散骨・分骨・樹木葬等、又仏像・指輪等にする人もいます。本教の教信徒でも、例えば携帯用の霊璽等の発想をする人もいます。
全て駄目なわけではありませんが、それぞれの歴史や意味を理解し、その目的を踏まえないと無駄働きや逆効果になります。
自分だけの納得で、図らずも故人の気持ちを踏みにじることもあります。
各個の解説はここではせず、別に解説の場を設けることにします。
本教の大系から導き出される教えに少し耳を傾けて頂ければ、一人納得や後味の悪さを解消出来るのに、と思います。
無神論の人の多く、又有神論者でさえ祈りや信仰に限って過去の叡智を無視するように独断に走るきらいがあるのは残念です。
5.慰霊と癒し
では勘違いを防ぐ、或は最小限度に止めるにはどうしたら良いのでしょう?
やはり先ず自分の目で見極める事ですが、その基準は、慰霊と癒しです。
例えば葬儀の目的はただの式典ではなく、死者への慰霊と共に自分や家族の癒しが行われるかを見極めることです。それはその教えのある本教の教師でも行う人と行わない人がいるのと同じく、もしそうした教えのない他教でも、行おうとする人がいるものです。
これを視点に自分で工夫して行うか、自分が見極めた教え或は人を頼るかです。
しかしどちらにしても、自身が信頼出来る考え方・教え・人に、辿り着きたいものです。
神仏が在るか無いかではなく、それらが 在ると考える方が、近親者の死への癒しや 日常の安心に繋がりやすい、に辿り着いたのが村落・民族の叡智です。 つづく