(おのず)(から)(みち) 312 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))18

 

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

第二条祖恩を忘るゝことなかれ2

2)自分の役割・(ぶん)(げん)

*先祖の大元二神と天在諸神

 自分の先祖を、父母・祖父母と段々に(さかのぼ)って行くと、私達人間の先祖である()()()(ぎの)(みこと)(()(がみ))()()()(みの)(みこと)(()(がみ))に行き着きます。

(筆者付加→この()()()()の二神は、日本人、()いては人類の先祖神(後述・()()(じん)(おや))です。

 他国の自然信仰も、名前こそ違え、多くは同様の()(がみ)()(がみ)が先祖神であることを知れば、世界の信仰の共通性に気付きます。)

 この()()()()の二神を更に溯ると、本教の『(ほう)(さい)(しゅ)(しん)』である『(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(てんざいしょじん)』となります。

(筆者付加→(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)とは、古事記や日本書紀に記され、先ず(あめ)()()(なか)(ぬしの)(かみ)に初まる(ぞう)()(さん)(じん)に二神を加えた()(はしら)(のかみ)(こと)(あまつ)(かみ)です。

 この()(はしら)は、人に(れい)(こん)()()を行います。

 次に(もっ)()()(ごん)(すい)(()(ぎょう))()(はしら)(のかみ)が在り、人の身体を造ります。この()(はしら)(なぎ)(なみ)を加え、(かみ)()(なな)()(もう)します。

 そして(こと)(あまつ)(かみ)()(はしら)(かみ)()(なな)()十二柱に(あま)(てらす)(すめ)(おお)(かみ)を加えた十八柱を、『(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(てんざいしょじん)』と(とな)えます。

 

 これが本教の『(ほう)(さい)(しゅ)(しん)』で、大自然の神であり宇宙神とも(とら)え、尊崇します。)

 その中でも大元は、(あめ)()()(なか)(ぬしの)(かみ)です。

 この天之御中主神は、天地が未だ開ける前の、初めから居られた神で、この神があって天と地が別れます。

 そして(たか)()()()(ひの)(かみ)(かみ)()()(ひの)(かみ)という陽と陰を司る神、又その下に段々と仕事が細かく別れ、それぞれを司る神が表れます。

 こうして、天の組織が整いました。

 そこで、(あま)()(かみ)(御中主神以下の天在諸神)のお考えから()()()()の二神をこの大地に降ろされました。

 (なぎ)(なみ)二神は(注:)私達の先祖神をお産みになり、先祖神は、その子・またその子と次々に産み継いで、私達それぞれの個人になっています。

注:私達の先祖神=(なぎ)(なみ)二神の御子で、それぞれ五大陸・五行の先祖神(=五祖神)となる。

 オーストリアは木・青・東で()()()(ちの)(かみ)、アメリカは火・赤・南で()()(つちの)(かみ)、アジアは土・黄・中央で(はに)(やす)(ひこの)(かみ)(はに)(やす)(ひめの)(かみ)である。又、

 ヨーロッパは水・黒・北で(みず)()()(めの)(かみ)、アフリカは金・白・秋で(かな)(やま)(ひこの)(かみ)(かな)(やま)(ひめの)(かみ)である。

(筆者付加→私達は、(こと)(あまつ)(かみ)から賦与された霊魂の火を移すように受け継ぎ、()(はしら)(のかみ)から身体を戴き、共にお借りしているとも考えます。

 自分の心身を大事にするべき()(えん)です。

 (てん)(ざい)(しょ)(じん)は、宇宙神・大自然神とも(とら)え、自然や動植物は、直系の子孫である人間の為に、備えて下さったと考えます。これは、必要内の伐採や捕殺ならば、感謝しながら活用しても良い、という教え伝えの根拠です。

 

 他の生き物の命を戴く事への(きん)()や後ろめたさを解く、自然で前向きな教えです。)

*生れながらに戴いているもの

 ですから、博士や大臣等のように、世に認められる優れた人でも、自分が勝手に世に飛び出して来たのではありません。

 自分一人の力だけで、社会の上流に立ったと思うのは、間違いです。

(筆者付加→心身に(しょう)(がい)があり、事業等で失敗しても、自分はこの世に不必要等と思うべきではありません。

 神は自分の力だけで生きていける人を造られてはいませんし、世の中に不必要な人も造られてはいません。

 必ず、生き甲斐・喜びを得る為の役割が与えられています。

 ですから、自殺等はもっての他です。

 その役割は、障碍の有る無しや年齢に関わりなく、必要だから活かされているのです。

 悩みや病気や産みの苦しみも、それが自分を意欲を()ぐのではなく、次の局面や行動の為の“祓い”と考える事です。

 知的障碍の人が言ったという、「私は考える事に障碍があるが、心には障碍はない!」という感覚は、(うなず)け且つ素晴しいと感じます。

 又、何かの小説で女の子に言わせていた

「大人は、勉強すれば頭が良くなる、と思っているのかしら?」も共感を覚えます。

 精神的障害の有無や年齢の高低以前に、人間本来の人間らしい感覚の根幹は、神の子として生来備わっているのです。それは、秩序・正義感や自主性・信仰と同様のものです。)

 

3)親の情

 親が子どもに対して持つ情とは、どんなものでしょうか?殊に母親は、産みの苦しみを味わいながら、子どもを産み出します。

 産まれてからは、一日一夜もゆっくりとする暇は無く、いつも子どもの身の回りの事のみに気を配ります。顔色や動き具合を見ては、健康に別状はないかと、心配します。

 ()うことが出来るようになれば、早く立たせたいと思い、立つことが出来れば、早く学校にやりたいと思います。まさに『這えば立て、立てば歩め』の期待と可愛がりようです。

 学校に行くようになれば、勉学に遅れをとらせたくないし、他の子に負けないようにしたいと思います。一つの学校を卒業すれば、次の上級学校へ進めたく思うものです。

 自分の子どもが独り立ち出来るまでの十数年から二十数年の間、学資を作る事をこの上ない楽しみとします。

 そこで、自分が老いることも構わず、ただ我が子の身辺のみ気持ちを通わせようとするものです。又、子どもが遠くへでも行くと、今頃はさぞかし寒かろう暑かろうとか、どんなことをしているのだろうかと考えます。

 不衛生な生活をしていないだろうかと、他人には分らない心配をします。

(筆者付加→こうしたことを考えて見ると、目には見えなくても、神・御先祖から見守られていることを感じるのではないでしょうか。)

    3)親の情おわり(第二条4)につづく)

神理誌抜粋

平成28年12月号  No.1234   2016-12