御教誡十箇条(略解の詳解)18
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第二条祖恩を忘るゝことなかれ2
2)自分の役割・分限
*先祖の大元二神と天在諸神
自分の先祖を、父母・祖父母と段々に溯って行くと、私達人間の先祖である伊邪那岐命(男神)と伊邪那美命(女神)に行き着きます。
(筆者付加→この那岐・那美の二神は、日本人、延いては人類の先祖神(後述・五祖神の祖)です。
他国の自然信仰も、名前こそ違え、多くは同様の男神と女神が先祖神であることを知れば、世界の信仰の共通性に気付きます。←)
この那岐・那美の二神を更に溯ると、本教の『奉齋主神』である『天在諸神(てんざいしょじん)』となります。
(筆者付加→天在諸神とは、古事記や日本書紀に記され、先ず天之御中主神に初まる造化三神に二神を加えた五柱神が別天神です。
この五柱は、人に霊魂賦与を行います。
次に木火土金水(五行)十柱神が在り、人の身体を造ります。この十柱に諾冊を加え、神代七代と称します。
そして別天神五柱と神代七代十二柱に天照皇大神を加えた十八柱を、『天在諸神(てんざいしょじん)』と称えます。
これが本教の『奉齋主神』で、大自然の神であり宇宙神とも捉え、尊崇します。←)
その中でも大元は、天之御中主神です。
この天之御中主神は、天地が未だ開ける前の、初めから居られた神で、この神があって天と地が別れます。
そして高皇産巣日神・神産巣日神という陽と陰を司る神、又その下に段々と仕事が細かく別れ、それぞれを司る神が表れます。
こうして、天の組織が整いました。
そこで、天津神(御中主神以下の天在諸神)のお考えから那岐・那美の二神をこの大地に降ろされました。
諾冊二神は、私達の先祖神をお産みになり、先祖神は、その子・またその子と次々に産み継いで、私達それぞれの個人になっています。
注:私達の先祖神=諾冊二神の御子で、それぞれ五大陸・五行の先祖神(=五祖神)となる。
オーストリアは木・青・東で久々能知神、アメリカは火・赤・南で火具土神、アジアは土・黄・中央で埴安彦神・埴安姫神である。又、
ヨーロッパは水・黒・北で水波之女神、アフリカは金・白・秋で金山彦神・金山姫神である。
(筆者付加→私達は、別天神から賦与された霊魂の火を移すように受け継ぎ、十柱神から身体を戴き、共にお借りしているとも考えます。
自分の心身を大事にするべき由縁です。
天在諸神は、宇宙神・大自然神とも捉え、自然や動植物は、直系の子孫である人間の為に、備えて下さったと考えます。これは、必要内の伐採や捕殺ならば、感謝しながら活用しても良い、という教え伝えの根拠です。
他の生き物の命を戴く事への禁忌や後ろめたさを解く、自然で前向きな教えです。←)
*生れながらに戴いているもの
ですから、博士や大臣等のように、世に認められる優れた人でも、自分が勝手に世に飛び出して来たのではありません。
自分一人の力だけで、社会の上流に立ったと思うのは、間違いです。
(筆者付加→心身に障碍があり、事業等で失敗しても、自分はこの世に不必要等と思うべきではありません。
神は自分の力だけで生きていける人を造られてはいませんし、世の中に不必要な人も造られてはいません。
必ず、生き甲斐・喜びを得る為の役割が与えられています。
ですから、自殺等はもっての他です。
その役割は、障碍の有る無しや年齢に関わりなく、必要だから活かされているのです。
悩みや病気や産みの苦しみも、それが自分を意欲を削ぐのではなく、次の局面や行動の為の“祓い”と考える事です。
知的障碍の人が言ったという、「私は考える事に障碍があるが、心には障碍はない!」という感覚は、頷け且つ素晴しいと感じます。
又、何かの小説で女の子に言わせていた
「大人は、勉強すれば頭が良くなる、と思っているのかしら?」も共感を覚えます。
精神的障害の有無や年齢の高低以前に、人間本来の人間らしい感覚の根幹は、神の子として生来備わっているのです。それは、秩序・正義感や自主性・信仰と同様のものです。←)
3)親の情
親が子どもに対して持つ情とは、どんなものでしょうか?殊に母親は、産みの苦しみを味わいながら、子どもを産み出します。
産まれてからは、一日一夜もゆっくりとする暇は無く、いつも子どもの身の回りの事のみに気を配ります。顔色や動き具合を見ては、健康に別状はないかと、心配します。
這うことが出来るようになれば、早く立たせたいと思い、立つことが出来れば、早く学校にやりたいと思います。まさに『這えば立て、立てば歩め』の期待と可愛がりようです。
学校に行くようになれば、勉学に遅れをとらせたくないし、他の子に負けないようにしたいと思います。一つの学校を卒業すれば、次の上級学校へ進めたく思うものです。
自分の子どもが独り立ち出来るまでの十数年から二十数年の間、学資を作る事をこの上ない楽しみとします。
そこで、自分が老いることも構わず、ただ我が子の身辺のみ気持ちを通わせようとするものです。又、子どもが遠くへでも行くと、今頃はさぞかし寒かろう暑かろうとか、どんなことをしているのだろうかと考えます。
不衛生な生活をしていないだろうかと、他人には分らない心配をします。
(筆者付加→こうしたことを考えて見ると、目には見えなくても、神・御先祖から見守られていることを感じるのではないでしょうか。←)