自然の道 310 管長 巫部祐彦
御教誡十箇条(略解の詳解)16
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第一条神の心に背くことなかれ15(筆者付加)2
*神の存在と死後の世界
神の存在や死後の世界について、他教と神道・本教を比べると、共通点はあっても結果的に考え方が大きく違う事が分ります。
*神仏の存在
・一神教の神の存在
一神教で最古のユダヤ教は、ユダヤ民族の発生地で、始めは軍神としてエホヴァを崇めました。しかし、戦争に負け続ける中で、 敵対する民族の神でもあるとの解釈を行い、軍神から主祭神に昇格したとの事です。
(ふしぎなキリスト教・講談社現代新書より)
軍神は、ギリシア神話ではアレス、ローマ神話ではマルスで、日本神話では素盞嗚神・八幡神・武甕槌神等です。
軍神が主祭神となり天地を創造する事は他の宗教にはなく、不自然・勘違い?を感じます。
厳しい自然の中で彷徨う内に、自然神(多神と本来の大元の神)の存在の感覚が忘れられたのだと、筆者は推測します。
又、ユダヤ・キリスト・イスラム教の主祭神となったエホヴァが、天地や人や動植物を 創り救世主を使わすとの事です。
特別な人にしか啓示を与えず、人との関わりの薄い、宇宙人(地球の開拓者)のような 存在に感じます。
因みに、ギリシア神話の主祭神はゼウス、ローマはユピテルで、天帝・神の王とされます。
仏教の元であるヒンズー教のブラフマーは、宇宙の創造神とされます。神道一般の天之御中主神や天照皇大神、本教の天在諸神も大元の神で、軍神とは出自が違います。一神教の神は少数の人が特定したもので、論理的・科学的に証明出来ず、信じるより他ありません。
・多神教の神仏の存在
多神教の仏教の主宰仏・本尊の大日如来や阿弥陀如来等は、釈迦が創造した物です。
従って、一神教と同じく、人が短期間に理性で考え出した、人造の神仏です。
是も論理的・科学的に証明出来ず、信じるより他ありません。
・神道一般と本教(古神道)の神の存在
本教では神道を単なる多神教とは考えませんが、稲荷神や八幡神等を主祭神と考える 神社は多神教と分類されるでしょう。
神社は本来自然(大元の神)の中に、由緒のある神を祀る場所であった筈です。
しかし、周囲が都会化する中で、自然=大元の神の存在を忘れたのではないでしょうか。
それは、先ほどのユダヤ教と反対の意味で、神道は多神教と思い込むようになったのではないかと推測します。けれども、万歩譲って多神教だとしても、神の存在や死後の世界の考え方の成立には、長い年月と試行錯誤を 経ています。是は大きな相違・分岐点です。
一人や少数の小さな理性で創られた教えではなく、言語のように真摯に修正・集積されてきた言い伝え・教えです。筆者は、ここに本教の原点を見出すと共に、本教教祖の伝える 『天造の教え』を垣間見る心地がするのです。
*死後の世界
死後の世界について、勧誘の為かも知れませんが、他教は脅しが過ぎるように感じます。
・一神教の死後の世界
犯してもない原罪を、救世主が磔にあうことで代り負うと押しつけ、その教団を信仰しないと天国に行けないと決めつけます。
もし地獄に行くと、何万年後の復活の時まで待ち、復活の時点でまだ信じてないと永遠に地獄・煉獄との教えです。こうした脅しの発想は、人類本来の考え方とは異質に感じます。
・多神教の死後の世界
仏教にも、その脅し方に共通点があり、 犯してもない宿業を、修行を積んだお坊さんを信仰し・金品を出せば救う、との教えです。
藁をも掴む思いの人は騙されるかも知れないものの、考える余裕がある人は、宗教自体に不信を抱くことでしょう。
是等も、論理的・科学的に証明出来ません。
後で成立した宗派が、勢力拡大を目指して死後の世界を勧誘の脅しに利用する為、天造の教えを真似てねじ曲げたと推測します。
・神道一般と本教(古神道)の死後の世界
本来の宗教・信仰は、困った人の為だけでなく、普段平穏な生活の為に活かせる、人類・ 民族が積み上げた精神文化なのです。
神道の信仰は、言語と似て、病気災難・死の
不安への癒しの手法を、永年積み重ね修正・ 進歩させてきたものです。
信仰は、世界中の村落・民族に自然に発生・ 進化したと推測されます。
祈りが“人の本性・本能”ならば、信仰は言語と同様の“村落・民族の叡智”です。
従って、これも論理的・科学的に証明出来ませんが、少なくとも信じる他無いと無理矢理飲み込む物ではありません。
*本教の神の存在と死後の世界の結論1
本教は、物部・巫部の教えを神道一般に平行して存続し、独自に受け継いで来ました。
神の存在や死後の世界についての考え方は民族の叡智であり、実は世界中に存在していたと思われますが、各地域に興った人造の教えにより、殆どが消え去っています。
しかし日本には、そうした神や死後についての考え方や神社の形式が遺っています。
又、本教には古神道の体系付けられた教理が受け継がれています。こうした考え方をするのが自然で心穏やかに過ごせることを、多くの日本人は体得しているのです。
そこで、神や死後の世界が癒しを中心として一番納得出来るという叡智が日本にあるならば、それは同時に『神も死後の世界も、こんな形で在る』ということになると考えます。
民族・人類の叡智を受け継ぎ、この心境に 達したならば、これも一つの悟りです。
祈り・信仰に親しみ、宗教の本来の目的に 気付き、死への恐怖も薄れることでしょう。
本教には古神道独自の死後観がありますが、それは別の機会とします。
(第一条続く)