御教誡十箇条(略解の詳解)2
(古神道・神理教を“本教”と記します)
御教誡とは(他教との違い)2
・背くとどうなるか(帰幽後)
では死んだ後はどうなるのでしょうか。
神道では死ぬことを『風火(人に添う火=霊)・去ぬる』と言い、霊魂が幽界(神の世界)に帰ることから帰幽と言います。
重く濁った霊魂は日の若宮(天国・極楽)という神の世界に昇れず、一旦黄泉(地獄)に下る事になります。しかし黄泉は罰を受ける処というより、自分の犯した罪を咎め(認識させ)られ、それを反省と共に祓う処なのです。
祓えば又神の世界日の若宮に帰り昇る事が出来るのです。
祖先が日の若宮に居る家は、若し不幸が起こる前に、その祖先から夢や小さな事件からお知らせ(=お告げ・予兆)を戴けます。
又それに気付かず大きな事件が起こっても、その守りによって大難は小難と軽減して戴く事が出来るのです。
反対に、祖先が黄泉に繋がれている家は、不幸が起こる前に、夢や小さな事件での知らせ(=お告げ・兆候)が戴けません。
又事件が起こった時、子孫を守ろうとしても果たせず、ただ見せつけれるだけです。
子孫の苦しみを見ても助けられないのは 大変苦しいことで、正に黄泉(地獄)に居るのと同じです。
本教の祝詞【霊祀霊前告詞】に、
『…氏人の日に増し衰え亡る事を、籠自物目の前に見乍も、助け守る事の成さざる苦しき難を受けしめ給ふとなも…
(…子孫が日々衰える姿を見ても、唐丸籠{昔の罪人の護送に用いた竹籠}に閉込められ 助け守る事が出来ないような、もどかしくも辛い難儀を受ける…)』とあるように、知らせ(=お告げ・予兆)もなく、突然起こった事件が
もし小さくとも、こじれて重大化して行く事もあるのです。
・神の理(帰幽後の幸と不幸)
人は神の心を持つ神の子ですから、如何に罪に塗れていようとも、子孫を愛しむ優しさは変わりません。
子孫の幸せを見守り且つ不幸を救うことが出来、子孫から感謝されることが、正に天国日の若宮にいるということです。反対に、
子孫の幸せは見られても不幸は救うことが出来ず、傍観するしかない悔しさと不安に苛まれることが、正に地国黄泉にいることです。
・御教誡は人の叡智の集積
是等は、死んで戻った人はいないので、誰
も見た人はいませんが、死に対する人類がたどり着いた死への癒しの叡智と言えます。
結果は他教と似ているようでも、その理や自然な経過に大きな違いがあり、より自身の指針が見付け易いと言えます。
教誡は、好不運の波に翻弄されず、安定し腰を据えて人生を過ごす為の基本の教えです。
第一条神の心にそむくことなかれ1
1)神の心とは1
・真の自由・喜び(他教との違い)
神の心とはどんなものでしょうか。
本教では、人は神の子孫(=分霊)と考えることから、神の跡を継ぐのは難しい事ではなく、自然の道と受け止めます。それは、
【本教大意】に『…夫婦和順、役仕勧業怠る時なく、世の為人の為善事を為すを云う。…』
とあるように、ごく自然な人の歩む道を示していることからも分ります。
本教が生活宗教である由縁です。
時折触れる事ながら、神の御任(=使命)に 添う・従うことは、多くの他教が言う様に、 一見神に隷属する歯車のように見えます。
しかし本教は、決して神に卑屈に隷属するのでも、神との契約でもありません。
親・祖先の大元である神と目的が同じであることを知り、共に力を併せて進むという、《真の自由》を発揮する事なのです。
神と同じ目的を共有する、真の自由・役立つ喜びを享受する事なのです。
神に隷属し全てを捧げる契約等しなくとも、私達の清々しい誠心に応え、神は我が子孫として自然に守りお助け下さる存在なのです。
自分のみでなく、家族・社会に役立ち、或時は感謝される喜びは、自己実現(夢が適う) より質の高い喜びです。
神の心は、祖先の大元である神=自然の心を理解し・受け止め・感謝と共に同化しようと 心掛ければ、自然悟る事が出来ます。
・人を子孫として慈しむ(他教との違い)
神が天地を造り、万物を育て、人に人を生ませる道を伝えたのは何故でしょうか。
それは、人に神の跡(行い)を継がせ、神の世(=皆が幸せな理想の社会)を創る為です。
本教では、人は神の心を生きた形として 顕現(現実化)する為に、神がその子孫・分霊(わけみたま)として産み出されたと考えます。
神の心とは、神の世のような理想の社会を、この世に実現(=理想の生きとし生けるもののあるべき姿に)したいということです。
私達が子孫を大切に思うように、神は私達を子孫として慈しんで下さると信じます。
神の心は、漠としてつかみようのないもののようでありながら、私たちを良い方へ、良い方へと導こうとする意思なのです。
神は、生きている者が皆嬉しく楽しく、 充実した生活を送れるよう望んでいます。
キリスト教等の一神教と本教の神と人との関係の違いは、例えば陶芸家の作品と自分の子どもへとの違いに似ています。
即ち作品へは我が子のように精魂と愛情を傾けて創っても、一点の傷でも見付けると涙を振り絞って壊すことがあります。
一方、神からの賜り物でもある自分の子どもは、もし障碍があっても人は我が子を殺すことはありません。
つづく
管長