御教誡十箇条(略解の詳解)1
(古神道・神理教を“本教”と記します)
神理教々誡
一、神の心にそむくことなかれ。
一、祖恩を忘るゝことなかれ。
一、政令にそむくことなかれ。
一、禍を避け病の癒ゆる厚き神徳を忘るゝことなかれ。
一、世は大なる一家なることを忘るゝことなかれ。
一、己の身の分限を忘るゝことなかれ。
一、人は怒るとも己は怒ることなかれ。
一、家業を怠ることなかれ。
一、教えの咎人となることなかれ。
一、外の教えを信じることなかれ。 以上
明治十三(1880)年七月二十五日
饒速日命七十七代裔 豊国巫部
本教 神理教会 教長 佐野経彦
お取り次ぎにあたり
前回完了の幸福への道程を辿る内に、話題の構想も多様に溜まりましたが、今月からは御教誡をお取り次ぎをさせて頂きます。
溜まった構想については、御教誡十箇条の解説に織り込めればと思います。
御教誡は『略解』として明治45年3月に 教祖の直門人、愛知県豊橋市の故小田清彦師が二代管長の校閲の下、製本化されました。
その後御教誡への理解を深めるため、平成10年7月に筆者がその『詳解』として現代語に直し、更に解釈を加えて製本化しました。
今月より、又更に手を加えながらお取り次ぎ出来ればとお届けします。
皆様には、信仰の本質・本教の奥処に進み 神髄を極める手掛かりとなれば幸甚です。
略解へのお言葉
敬神尊祖を信仰の基とし、勤倹実行を処世の要とし、善悪応報を安心の極みとす。これ神理教の教旨なり。
教統第二世 巫部 伊豆彦
右は製本化に当り、二代管長が小田師に 贈られた言葉です。御教誡は、本教信仰の 指針となるべきものですから、その基の基の心得を、分かり安く示しています。
御教誡とは(他教との違い)1
・生活の知恵を伝える
単に教誡とも言われます。
本教は太古からの人の叡智を積み上げた 生活宗教です。その巫部家に伝わった叡智を御教祖が大成し、私達に伝えたものです。
他教にある戒律のように『…でなければな
らない・…をしてはいけない』という、命令や禁止とは意味合いが違います。
命令や禁止というより、こうした方が良い或はしない方が良いという、生活の知恵を
神の理として伝えるものです。
・背くとどうなるか(生前)
その違いは、では背いたらどうなるかを、本教の言霊学から説き起こすと理解出来ます。
他教では背いたら、神から罰を下される(=地獄に行く・天国に行けない)となるようです。
しかし古神道である本教では、悪い事をすると、先ず罪という神の理が働きます。
罰ではなく、神と祖先は守りたくとも、 自身を罪で塞ぐから守りが得られないのです。
罪の本言(=その言葉の持つ本来の意味)は包み・隠す、即ち悪いと分って或は迷って行うのですから、後ろめたい気持ちになります。
そんな気持ちは重く濁り、本来神の分霊である清々しい心は、罪の厚さや隙間の差から、神との関わりが閉ざされ或は途切れます。
そうなると神や祖先からの徳・守り(=気)が届かなくなって(=枯れて)しまいます。
それが気・枯れ、即ち穢なのです。穢は汚い・臭いとか卑しいという、差別用語のような意味ではありません。罪が《原因》で、穢は神祖の徳・守りが届かない《結果》なのです。
そこで徳・守りが届かないから、世間の好不運の波の中で、好の時には良い物の、不運の時には災難を受ける事になるのです。
常に人と世を良い方向に導こうとする神は、罰を与える存在ではなく、罪があっても運の良い時にそれを邪魔することはありません。
ただ運の悪い時に、神と祖先はそれを助ける事が出来ないのです。
人は神に飼育されているのではなく、神と同じく自分の責任の中で、自ら生を楽しむ 自由な存在です。従って、神と祖先から守られるか否かも自己決定ですから、神の理をよく理解するべきです。
背くと病を引き起こす神の理もあります。
病の本言(その言葉の本来の意味)は止む・日、即ち穢と似て神祖から戴く生きる力が止む或は滞って少なくなっているから病気になる、という教えです。
本教には【人体本言考】という教書があって、病気の部位により何が止む・日の原因かを暗示する教えもあります。
らないように、又もしなっても神の理を知る事で救われる為の基本の教え・心掛けです。
御教誡は、穢(気・枯れ)や病(止む・日)とな
日本人に悪行をしない人の割合が多いのは、その理を知らずとも、親の後ろ姿から 伝わっているからです。
生きている時に神祖の守りを戴けると幸せですし、背いて戴けなくなると不幸な生活をすることになります。
つづく