(はっ)(とく)Gの()(はく)

幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪を祓う。3.神気を戴く(長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです。
   (古神道・神理教を“本教”と記します)

 
 (ぼう)(とう)4.(はっ)(とく)Gの()(はく)をお伝えします。

1.(しち)(ざい)2.(はらい)の守りから、3.(ちょう)()(きゅう)(ほう)4.(はっ)(とく)と、攻め(積極策)に転じています。

()(はく)(つづき)

()びるは(はら)(のつづき)

 ()びて(いの)()びて(ねが)わば (よろこ)びて

  (かみ)(たす)けむ なしのまにまに(人道百首)

(私達は自分の(しっ)(たい)(めい)(わく)や周囲の人を傷付けていることに、得てして気付かないものです。

 どうかすると、人に()(てき)されてもなお気付かず、反発さえする事もあります。

 ()びる(=(あやま))という行為は、自身の(ゆくり)(なく)(=知らずに)(おか)した(つみ)に気付くことが出来た(あかし)です。そこで、心から申し訳なく思いつつ()びる事は、()(はく)と言う(はら)の一つです。

 又、自分を()(なお)に見直すことが出来た(あかし)であり、自分が()(なお)なれたから、(はら)(=()びる(あかし)の行動=自白)(つな)がったのです。

 その気付きと()=自白によって(すが)(すが)しくなった(れい)(こん)をご(らん)になった神と祖先が喜ばれたから、その助け・守りが自然に生じるのです。

 その助け守る力というのは()(じん)(ぞう)で、なしのまにま{あるがまま=必要なだけ}の神徳を戴く事が出来るのです。)

 自身の()(ごう)()を認め反省するということは大変な勇気が()りますし、()び・自白という 行為は重苦しく感じるものです。

 片方だけが悪い交通事故が少ないように、相手の(あやま)ちへの()(なん)()(まん)して自分だけが(あやま)るというのは、(つら)く不愉快な事です。

 しかし、ここが考えようで、相手より先に自分の非を認める方が、より多く罪を()くことになるのです。

 (ほう)(りつ)は先に(あやま)った方が負けですが、(しん)(りつ)は先に謝った方が勝ち((とく)())なのです。

 だから、こうした心の持ちようが出来る人を、徳の有る大人と言います。

 (ちな)みに()び・自白だけでなく、笑い(はら)です。(はら)(せん)()(ばん)(べつ)、色んな形があります。

()()()(てい)(こう)(てい)(かっ)(とう)

 ()びる(=(あやま))()(はく)を行うことは、自身の(こだわ)りや(へん)(けん)(うす)める効果があります。

 反対に是が出来ない人は、気が付かない内にそれらに取り()かれてしまいがちです。

『自分は一切悪くない・間違っていない』と 確信し、()()(はく)もする必要を感じないと思われる人も見かけます。しかしその多くは、(こだわ)りや(へん)(けん)に取り()かれているものです。

 ()び・()(はく)は、同時に自分自身を(そう)(しつ)するような恐怖感を覚えるものです。

 それは(いっ)(たん)自分を否定するという、不安な心の動きを自身に下す行為だからです。

 ()び・()(はく)の必要性は理解出来ても、自分が自分を信頼出来なければ、自身の地盤を失うような気持ちになるものです。

 自分を信用出来なくてどうする!と、自身を()()したくなる気持ちも分かります。

 その(かっ)(とう)について、本教は次のように整理して考えます。

 私達は(ゆず)れない正義感や、それとは(うら)(はら)に後ろめたい思いや自分の信義が善か悪か?のあやふやな思いも持っているものです。

 是等は互いに作用し合い、日を置き考えても空回りして、中々結論にたどり着きません。

 ()()(こう)(てい)が良くて()(てい)が悪い、等と言う 一眼的な考えでは解決出来ないのです。

 神ならぬ我が身・我が心と自覚出来れば、 ()()(こう)(てい)()(てい)も、(こだわ)ることはありません。

 その両方を(あわ)せ飲む心の広さが大切です。

()(はく)()()()(てい)

 そこで、(ゆず)れない正義感も後ろめたさやあやふやな思いも(いっ)(たん)(たな)()げにして、神にお任せするという決意をするのです。

 自分が神を信仰・信頼するという心があれば、その勇気を以て今までのこだわりを全部捨て去るのです。

 この時神は自然の()()()のような存在となり、必ず悪い物は取り除き、良い物はもっと

()(れい)にして私達に戻して下さいます。

 自分の確信(あるい)(こだわ)りも迷いも願いも含め、全部この()()()に入れても、決して大切な物が消えてしまうことはありません。

 安心して神にお任せすれば、それが本当の自分=神の心に()れるきっかけとなるのです。

 いつ今まで大切に形成してきた自分の心の構成を(くず)(一旦神にお返し)しても、本当の 自分は必ず(さい)(こう)(ちく)出来るものです。

 それは、私達は神の子孫(=(ぶん)(れい))という(しん)(ずい)(=(さと)り)から理解出来ることです。

 神の御加護の(もと)(=(もと)(もと))にあるというのは、(いっ)(けん)神の支配下に不自由な(そく)(ばく)を受けているように思われがちです。

 しかし、神と私達が先祖と子孫として同じ目的(例えば理想の神の世作り)を持つと自覚出来れば、真の自由であることが分かります。

 神と人の関係は契約等ではなく、親と子のように、同じ目的の共有(=自由)なのです。

 その為にも、()びる(はら)であると共に、自分の悪い部分を神にさらけ出すことですから()(はく)でもあるのです。

 決して()(はく)()()()(てい)ではありません。

・自白のまとめ

 ()(はく)は清い心に立ち帰る(すべ)であり、言い換えれば徳積みと(はら)です。是非勇気を以てこの徳を生活に活かせるよう工夫して取り入れ、共に幸福への道程を進んで行きましょう。

(幸福への道程・八徳、完了)

 幸福への道程48ヶ月分を、近く(まと)めたく思います。楽しみに思って下されば幸いです。

自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦
2015−6
平成27年6月号  No.1216