幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪を祓う。3.神気を戴く(長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです。
(古神道・神理教を“本教”と記します)
冒頭4.八徳Fの克己をお伝えします。
1七罪祓の守りから、3長呼吸法八徳と、攻め(積極策)に転じています。
克己2
・克己への道筋
先月、克己は自分に勝つ(=克つ)と書くけれども、自分と闘うような姿勢と違って良い旨のお話しをしました。
貪(七罪の3番目・吝嗇=ケチ)でない欲は、生きる意欲の為の友達のようなものです。
又、克己出来ない弱さは、防衛本能と思い大切にすべきで、逆に自分の弱さを責めても良い結果は得られないものです。頑張らずとも、自分の欲を上手く活用することで、結果から見ると結構頑張っているものです。
自分を制圧するのではなく、楽しい人生の為に折角神から戴いた欲を、後ろめたく思わず自分の心をくすぐるように使うのです。
他人からは冷静に自分の心を立派に制御しているように見えても、自分としては湧き上がるように人生を誠一杯楽しんでいるのです。
その辺りを弁え、実行出来る人が人生の 達人と言えます。
頭で分かっていても色んな雑念が入り、 意外に実行は難しいものです。
分かって無くとも幸せな人もいますが、 先ずその事実と構造(からくり)を知り、実行に移すことで長続きするのです。
欲や雑念の扱い方が分からない人もいることでしょう。
欲は神に戴いた本能として悪者扱いせず、素直に喜びとして自分の心を解放し、不要な雑念は神にお任せし信仰の力で祓うことです。
良い先人に学ぶ(真似る)ことも大切で、 尊敬する先人に学ぶと、貪に道を踏み外す心配も少なくなります。
これを知ると決して厳しく難しい道でないことに気付かれることでしょう。
余談ですが学ぶについて、先日TTPという造語を学びました。T(徹底)T(的に)P(パクる=真似する)という事だそうです。
真似ばかりでは先人を越えられませんが、真似も出来ない人が人生でも何でも上達することは出来ません。守(師・先人に学ぶ)→ 破(自らの境地を見出す)→離(自在に独自性を発揮する)となるのが一つの理想です。
先ず良い人の行動・考え方を真似、それから個性や独自性を編み出すのが道筋と言えます。
・守りの克己
先月も先ほども、克己出来ない弱さは防衛本能と述べましたが、余程のチャンスと感じる以外、攻めを意識しすぎない事です。
攻めへの強迫観念に捕われ慌てて自他に働き掛けるのは無謀で、返って自滅を招きます。
先ず自分が今守っている物は何か、又守らねばならない物は何か、を意識することです。
守らねばならない物、例えば寒い日に身を縮め我慢を諦念(=道理を悟る・あきらめる) 或は決意するようなものです。
こうした自然と導かれる心掛けが、実は気づかぬ内に克己の徳を積んでいるのです。
又言い間違えて相手の誤解を招いた時、 自分の不注意でとんでもない過ちを犯した時、自他の反省・叱責を受けることがあります。
それは身内の失敗が身に及んだ時も同じで、加えて身内の不幸や災難に、苦しい時間を長く過ごすことがあります。
是等も全て自分から求めた克己ではないものの、この時こそ克己をする他はありません。
しかし、是等は考えようによっては克己という徳を積んでいることにもなるのです。
全て物事は考えようで、自分にとって最悪と思える時間は、実は克己という最難関の徳を積んでいるとも言えるのです。
我慢をしながらも守るしかない、耐えきることも克己の徳を積んでいると考えましょう。
我慢さえ出来れば充分で、それが克己への足掛かり・希望となるのです。
・『後の先』の克己
本人にとって早く過ぎ去ればよいと思う季節や時機にこそ、実は徳や成長があるのです。
冬の荒野に立つ心細い枯れ木に見えても、枝先を見ればもう蕾は膨らんでいます。
冬の本言(=その言葉が持つ本来の意味)は恩頼(みたまのふゆ)で、我慢の中に既に楽しみの蕾があることを教えています。
剣道や相撲等に『後の先』という言葉があります。一旦、相手に先に攻めさせながら、タイミングを見計らって反撃に転じるという高等手段です。あきらめない・粘る等のキーワード(言葉の鍵)にさえ意識していれば、きっと克己出来るのです。
・克己の要諦(=肝要な悟り)
卑近な例ながら、生活レベルが低い時だけでなく、中〜中の上と思っていても、子育て等の諸事情で耐えるしかない時期があります。
克己の徳積みとしてはそれで充分ですが、その苦しい時期の過ごし方・心の持ち方を 工夫することが、二重の徳積みでもあります。
例え低いと自覚していても信仰の力は素晴らしいもので、良い方向を見ることで心が改善され、生活もそうなるものです。
挑む勇気も大切ながら、要は上ばかりを見て無理をしなくとも、振り向けば克己をなして(耐えて)いる自分に気付くことです。