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                                                          2015−3

平成27年3月号  No.1213

        

                 自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦

八徳Fの克己1
 幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪を祓う。3.神気を戴く(長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです
   (古神道・神理教を“本教”と記します)

 

 (ぼう)(とう)4.(はっ)(とく)Fの(こっ)()をお伝えします。

1.(しち)(ざい)2.(はらい)の守りから、3.(ちょう)()(きゅう)(ほう)4.(はっ)(とく)と、攻め(積極策)に転じています。

 

(こっ)()

(こっ)()へのアプローチ(=接近)

 (こっ)()というのは、辞書には自分の欲望や (じゃ)(ねん)に打ち勝つ(=())、とあります。

 (こっ)()等と言うそんな(こわ)そうな言葉を使ってまで(がん)()らなくとも良いではないか、と居直ってしまいがちです。

 実行出来る時も出来ない場面もありながら、全体として自信が持ちにくいものです。

 (おのれ)()つ!を目指すならば、先ず()(かえ)し声に出すこと((こと)(だま))から始めるべきでしょう。

 筆者は昨年、体重5s減の目標を声に出さなかったからか、逆に4s増という(さん)(たん)たる結果となりました。

 今年は先ず5s減を目指します!

 又、喫煙(きつえん)やギャンブル等を、()めたくても止められない人も多くいます。

 自己コントロール(=(せい)(ぎょ))に限って言えば、人により()()()()()はあるでしょうが、他の八徳に比べ(さい)(なん)(かん)と言えそうです。

 私達は、(こっ)()という教えをどう受け止め、どこからどう活用すれば良いのでしょうか。

 本当に実行が難しい教えなのでしょうか。

・欲についての教え

 御教祖は、教示録の(ゆい)(ごん)の第三十八条に、

『欲は人間(そう)(おう)(せい)なれば(注:1)(りん)(しょく)にならざる限りは(とが)むるべきには(あら)ざれど、そ(注:2)()(わきま)えざればむしろ無欲の人となれ。

 世を渡るにも家を(ととの)えるにも国を治めるにも、我を離れたる無欲の人にしくは無し。』とあります。

:(りん)(しょく)=(もの)()しみ、(いわ)(ゆる)ケチのこと。

:()(わきま)えない=(しち)(ざい)で言う(むさぼり)

(人間(そう)(おう)(せい)の意味は、欲は悪ではなく、人に(ふさ)()しく神から与えられた徳の一つです。

:3この部分=他教では欲を(ぼん)(のう)・悪等として人の心から切り離そうとするが、本教は違う。

 なぜ人に欲が必要なのでしょうか。それは、例えば食欲は栄養を取り入れて元気に働く為に、性欲は子孫を増やし人類が繁栄し、神の世界を形にする為に必要不可欠です。

 又物欲も、自分や親や周囲の人が(かっ)()とした生活をして、互いに安心し合うと共に、  世の中に役立つ為に必要不可欠です。

 このように、全ての欲にはそれぞれの目的があり、不要なものは無いのです。

 意欲というものは大切で、そうした欲を(きたな)いと見るのは間違いです。

 だから(りん)(しょく)(もの)()しみ・ケチ}という心に(おちい)らない限り、欲は悪い事ではないと教えているのです。

 必要以上に欲しがる(むさぼり)の心に(おちい)らない限り、欲は返って必要なものです。

 ただ、どの程度が必要なもので、どの程度が(むさぼり)であるかという判断は、神ならぬ私たち智恵では(およ)びません。

 そこで、いっそのこと始めから無欲の気持ちでいるのが良い、との教えは逆説のユーモアにも感じます。

 自分という小さな単位の中では、欲の占めて良い部分は結構多いものです。

 しかし、他人を含む家や社会や国と、段々と規模の拡大に(あわ)せ、自分の欲も(ふく)らませるのは百害あって一利無し≠フ心の動きです。

 組織で世の為人の為に働く時、欲を持つのは(つみ)に目が(くら)んだ(かん)(ちが)いなのです。)(まと)めると、

『ケチや(むさぼり)にならない限り、欲は大切な 生きる意欲だが、その限度が分からない時は無欲を元としなさい。

 欲を無理矢理押さえ込む必要はなく、気楽に考えて良いが、ケチや(むさぼり)には気を付けましょう。又、奉仕組織等での欲は不要で、(つみ)となります。』と教えています。

(こっ)()への道筋

 自分の欲や弱さを押さえ、無欲で強く生きる事は難しいように思えます。

 しかし欲を悪≠ニ切り捨てず神からの贈り物・弱さも(じゅう)(なん)(ぼう)(ぎょ)(ほん)(のう)と受け止め、自己の意欲と強い部分を見出したいものです。

 無理に(こっ)()へ押し進むのではなく、目標を()()えて神前に声を出して(とな)え祈ることから始めては(いか)()でしょうか。

 これが信仰の原点で、祈り(とな)えが自然に出来る事が、普段の信仰の(たまもの)=有り難さですし、そうありたいものです。

 自分だけの快楽を追い不快を取り除くだけの目的から、家族や社会など周囲の人と喜びを分かち合う事に意識を広げる事です。

 それは一見損に見えながら感謝を受ける、より質の高い喜びである事に気が付けば、 積極的に行なえるようになるものです。

 縦には神と祖先と自分と子孫、横には自然や社会や家族と自分を意識し、その中で生かされていることを感謝する事が信仰なのです。

 物事は利害や損得の理論だけで成り立っているものではなく、必ずそこには暖かみのある心が加わって命が吹き込まれるのです。

 (こっ)()は、無理に自分を(おさ)え込むのではなく、自然に心を(まか)せて他人の立場になって考えることです。

 そこで、自分の目的が体得出来、無理なく、した方が良い事やしない方が良い事が理解・実行出来、同時に罪を解くことになるのです。

 そう難しい事ではないようです。(続く)