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                                                          2015−2

平成27年2月号  No.1212

        

                 自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦

八徳Eの愛他2
 幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪を祓う。3.神気を戴く(長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです。
   (古神道・神理教を“本教”と記します)

 

 (ぼう)(とう)4.(はっ)(とく)Eの(あい)()をお伝えします。

1.(しち)(ざい)2.(はらい)の守りから、3.(ちょう)()(きゅう)(ほう)4.(はっ)(とく)と、攻め(積極策)に転じています。

 

(あい)()

・御教祖の教え2-全てを受け入れ・愛す2/2

 又、人類全体から動植物を愛することまで、全てのものを愛することが、そのまま神を 敬うという行為になっているのです。)と教えられています。

:1人と動植物=(とき)(おり)()れることながら、

1.(ほん)(きょう)(古神道・神理教)では、人は神の(わけ)(みたま)を受け継ぐ直系の子孫と受け止めています。

 動植物は神が人の為に、神の一部である自然から二次的に(うま)せたと(とら)えます。人も動植物も共に(しん)(せい)は持ちながら、言い換えれば(しょく)(もつ)(れん)()の頂点に、神が人を()えたと考えるのです。

 従って私達は他の全ての動植物に敬意を持ちつつ、堂々と戴き利用出来るのです。

 基本的に飲食物への禁忌(きんき)はなく、他の動植物を戴くのは、世に役立ち楽しく健康に生きる 目的への、神から与えられた手段と考えます。

 

2.(ちな)みに仏教では、(ぶっ)(せい)は動物には有るが植物には無いと(とら)えるようです。

 本教が人と動植物の間に線を引くのに対し、仏教は人と動物までを(ひと)(くく)りにして、これと植物との間に線を引くのです。

 その理由は(りん)()()(そう)(にく)(じき)(きん)()にあり、人が(りん)()(てん)(せい)している可能性のある動物は食べられないとするのです。

 では何故植物は食べられるのかと言うと、植物には人が転生せず仏性が無いから、とのことです。仏性が無いから食べられるとしたのか、食べるものが無くなるから仏性が無いとしたのか、興味深い処です。

3.(ちな)みにキリスト教等の一神教では、自然は人がどのようにでも手を加えて良い、と神の許しを得ている、というものです。

 神の次に人を上位とする点は神道と似ていますが、万物に神性・仏性が有るという観念が無く、生き物への敬意の違いが感じられます。

 神道と違い、神を上位・自然を下位(神の造作物)と分けている為、自然を決定的に破壊しても余り罪悪感を感じないようです。

 その結果、森林破壊をしたヨーロッパでチフスが()()った等の史実があります。

:(余談)快楽と禁欲

 話が少し余談に向かっていますが、是等の考え方は、現代人の宗教(あるい)は宗教者への固定観念にも見られます。例えば、

 現代の宗教者の多く((こと)に日本)は、(にく)(じき)(さい)(たい)をするものの、本来の姿ではない(()(かい)(そう))という固定観念です。

 江戸時代、寺僧がこれを行って遠島の刑を 受けた等伝わっていますし、今でも酒の事を〈(はん)(にゃ)(とう)等の(いん)()で話す人もいます。

 江戸時代に始まった(てら)(うけ)(せい)()により、ほとんどの日本人が寺院の(だん)()を強制されます。

:2の注:(てら)(うけ)(せい)()=キリスト教を防ぐという名目で、寺が戸籍の管理と共に葬儀を行う制度。

 実は皇室(=神道)と国民の心を切り離す為の、徳川幕府の施策。

 そこで宗教者=(にく)(じき)(さい)(たい)しない仏教僧、との観念が、こうした誤解を生んだのでしょう。

 それは世界的な観念でもあったようです。

 しかし、江戸時代でも同じ宗教者である神社の神主は、高価でもあった(にく)(じき)は断言出来ませんが、(さい)(たい)は当然のように行って来ました。

 (あたか)も言語のように、人類の(えい)()(しゅう)(せき)した自然の教えに、本来こうした(きん)()はないのです。

 色欲は子孫繁栄の為に、酒も心を和ませる為に神から与えられたと考えます。ただ(しち)(ざい)(むさぼり)に気を付け、(はらい)を行うのです。

 宗教によって、快楽と禁欲・楽観と悲観・性善と性悪等分かれますが、(ほん)(きょう)・神の心は楽や善に近く感じるものの、どちらでもありません。

 親・先祖を辿(たど)った先の大自然・宇宙=神を大元の親とし、親が子孫を可愛がるように、神の(おん)(けい)を信じます。

 そして私達も子孫を愛し、その子孫の生きる社会に役立つ事を、神の心と信じるのです。

・御教祖の教え2のまとめ

 余談に深入りしましたが、要は事実や史実を確認しながらも全てを受け入れ・愛しつつ、自身の信仰を見つめ直すことです。

 そこで自身の神性に自覚を持ち、神の心を見極めつつ生活に役立て、家族を始め社会にも役立つことではないでしょうか。

 

・御教祖の教え3-

 また、教示録の遺言(ゆいごん)の第七十三条に、

『愛せよ。愛する事を忘るるな。(ひろ)く愛せよ。遠く愛せよ。(しか)れども、愛におぼるることなかれ。()(てい)には必ず、(かん)(なん)(けつ)(ぼう)()れしむべし。是、愛の(きわみ)なり。』とあります。

(子孫や弟子へ愛情を掛けるとしたら、それは(もう)(あい)ではなく広く遠くから包み込むような愛情を掛けなさい。又自分自身のみでなく 子弟を愛するが(ゆえ)、苦労や物やお金が足りない状況も()(やみ)に救わず、自分で物事を考え(つく)り出すという力が付くように見守りなさい。

 この厳しさも、子孫や弟子への本当の愛情というものです。)と教えられています。

 愛情と憎しみは裏表です。愛するが(ゆえ)にその心を傷つけられたと思い迷った時、大きな憎しみとなることもあります。『…遠く愛せよ』という遺言は、それを避ける教えでもあります。もし情動の流れの中で人を憎むことがあっても、その流れに身を任せ続けると、自身や家族の心身を(いた)める事にもなります。

 結果の()(かん)は別にして、先ず自分を祓い(あい)()の心を神の心として(たゆ)まず保つことです。

 (あい)()を習慣にする中で、真の(あい)()とは相手に何をさせて頂くのが良いのか、何をしない方が良いのかを、いつも考える事です。

 そこで神と同質の心に立ち帰り又、罪を解き徳を積むことになるのです。