御教誡十箇条(略解の詳解)6
(古神道・神理教を“本教”と記します)
自然の道は三百回・二十五年を迎えます。
有り難うございます。今後も楽しく元気に共に考え、教えを語り継いで行きましょう。
第一条神の心にそむくことなかれ5
2)神様の存在を知ること4
3)神の守りに入る前に、左の見出しに添いもう少しご一緒に考えたいと思います。
・祈り・信仰・宗教(筆者付加)1
*祈りの捉え方(本質・基本)
祈りとは、自然な心の糧であり、信仰の元です。
祈るとは 願うに非ず 我が心
明りの入るを 云える言なり(古義百首)
(祈るとは、目先の願いを主張するのではなく、明り{=神なる大自然}を心に入れる{=心を通わせる}ことにある。
神と同調出来れば、気が付けば願わずとも適う、或は願う必要さえ無くなっているものである。)と御教祖は教えています。
フランスの哲学・数学者デカルトの命題 『我思う、故に我有り』に共感するように、本教の命題である『平安な心を保つ祈りは人が持って生れた本性』も、多くの人が共感すると思われます。
誰でも心を凝らして自身を見直せば、[祈る心]を本能として持っていると気付くことでしょう。
目先の利益や苦しみから逃れる事を願うのではなく、自身が認識した荘厳な自然や人格者等、人智や自分の限界を超えた存在に対しての1.本性としての日常の祈りです。
又、美しい景観や周囲の人達の優しさに対しての2.感動や感謝からの自然の祈りです。
[祈る心]さえも否定し、無神論・無信仰を主張する人は、祈る対象も失っているのです。
祈りの対象を具体的に上げると、人智を越えた存在と尊崇する、岩や山・湖や海・月日や星・偶像や神仏、或は親や祖先等です。
それ等は、村落や地域や民族の叡智の集積により、自然に生命の元である大自然や宇宙(=神仏)に収束します。この祈りが組織様式化し、信仰に繋がって行くのです。
*信仰の捉え方(本質・基本)1
信仰とは祈りの組織・様式化です。
組織とは村落や民族、様式とは供物等を含む祭式儀礼の原型のようなものです。
祈り・信仰は英語・中国語・アラビア語・日本語等の言語と似て、家族や村落や民族で何千年も掛けて積み重ね修正・進歩してきた人類(民族)の叡智であり精神文化です。
これは宗教が興る前から世界中に存在する自然な形です。
大自然なる神を敬い、産み元として親・祖先を尊ぶ≠ニいう“誰でも自然に湧き上がる気持”であり、信仰の手法・心得(後述)でもあります。
是を日本では神道の元(古・純・復古神道)と考え、『敬神尊祖』と言います。
人間の元々の信仰を『自然の信仰』と呼ぶならば、それは世界中の土着の民族や日本でもアイヌや沖縄等に存在します。
又、それらの地域に伝わる素朴な文化や 信仰は、色んな形で遺っているものです。
信仰は祈りを基に、今でも人類が本能として持っているものです。
+信仰者1
信仰者とは、尊崇する対象(上述)へ祈る心のある人です。又、自身の原点である親・祖先・神を信頼・感謝する人(親・家庭・社会奉仕)です。
不信仰者とは、親へも信頼が置けない人です。
祈り・信仰は一人でも良いのですが、人は助け合う仲間との団体生活が常態ですから、一人ではなく共に祈り信仰する方が普通です。
+信仰者2
信仰者とは、・1感謝・2反省・3奉仕といういわゆる信仰の三原則を心得る人です。
不信仰者とは、この三つが出来ない人です。
+信仰の目的と手法・心得1
現世利益を求める事(下根)も信仰に近づく過程であり決して恥ずべき事ではありません。
しかし、以下に信仰の本来の1.目的と 2.手法・心得を比較して述べると、
1.御利益を目的に、2.特別の神仏を拝む事ではなく、
1.自分の心の持ち方を見直す事を目的に、 2.大自然なる神を敬い、産み元として親・祖先を尊ぶ事(=敬神尊祖)です。
*信仰の目的と手法・心得2
1.病気災難、或は死の不安への癒し、安穏充実した日常や夢を適え、世に役立つ喜びへ結びつく事を目的に、
2.家族・村落・民族で、叡智・文化として積み上げた祈り・信仰を杖とする事です。
それは、例えば仏教の慈しみ≠窿Lリスト教の愛≠笆{教の誠≠ニも通じます。
ここまで親・家庭・祖先・社会・天皇・神が出る中で、親・家庭への信頼・感謝が始まりです。
もう少し細かく言うと、
[縦の線]
親や祖先やその大元の神との繋がりを感じ、信頼する事です。
又、兄弟姉妹・親族と幸福も不幸も分かち合う事です。又、子や子孫を慈しみ見守る事です。
[横の線]
学校や地域や会社等、社会の先輩や同僚・後輩とも、家族親族に準じて目先の損得から解放された信頼と支え合いの関係を構築する事です。
[縦と横の線の複合]
先ず、感謝・反省・奉仕(=慈愛誠等)の気持ちが持てれば、立派な信仰者(中根)です。
次に、その意識が上下左右前後・過去未来へ
と、何処まで伸びるか見据える事です。
(続く)