御教誡十箇条(略解の詳解)5
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第一条神の心にそむくことなかれ4
2)神様の存在を知ること3
・信仰が無いと言う人2(筆者付加)
この小見出しの始め(先月)に戻り、
「特に、又は特定の信仰が無い」という人にも内訳がありそうです。
*信仰が無い人の内訳
1.『特に信仰が無い』のと、2.『特定の信仰が無い』は、大きな違いを感じます。
1.『信仰が無い』人の多くは、無神論です。
神か祖先か親までかは人によって違うでしょうが、是等を信仰・信頼出来ない人が、何故自分だけを信じられるのか疑問です。
神・祖先・親が一貫した自身の基盤である、との意識が無いのでしょうが、木の叉から生まれた人はいません。
自分が生れた基盤を放棄しつつも、自身の信条は信頼することへ、矛盾した浅慮というか支離滅裂ながら、重い意志を感じます。
『特に』が加わると、無神論への軽い意志か、信仰に頼るのを弱さと見て軽蔑或は我慢しているかです。又、心の拠り所を探していても、信仰の意味もその対象も見付けられずにいるのだと感じます。
2.『特定の…』は、具体名のある神仏や神社・仏閣・宗教又はその各派のことで、無神論も含む1.より曖昧な表現の仕方です。
筆者が全て分っているとは言いませんが、大部分の人はこの1.と2.の違いを理解して区別してないように感じます。ごちゃ混ぜ、又は偶然の使い分けをしているようです。
この辺りの人達が『信仰自体の否定はしないが自分は…』等の言葉の使い方をします。
しかし、信仰の本質を知らない人が信仰の否定も肯定も出来る事ではありません。
*天造の神と人造の神仏
『特定の…』の一面は分ります。しかし、
信仰の対象を、例えばエホバ(キリスト・マホメッド)・如来(釈迦・大日・阿弥陀・薬師)等に並べて神道の神と言うならば、その人ははっきりと分ってないなと感じます。誰かが決めた神仏と、両親・祖父母・祖先を溯ったところの神とは、自然違う物だからです。即ち前者が人造の神仏で、後者が天造の神です。
しかし神道一般でも八幡神や稲荷や天満宮や金比羅神等、個別の神を祀る神社が多いのでややこしく感じる向きもあることでしょう。
ここで言う神道・天造の神は、本教の天之 御中主神〜天照皇大神、延いては世界共通の祖先神とも言うべき神或は神々です。
*信仰への気付き
信仰が無いと言う人の大部分は、本当は 信仰をしている自分に気付いていません。
又有ると言う人も、本来何を信仰するかに
気付いていない人が多いようです。
親・祖先・神という基盤に対しての信頼・ 信仰と御利益の神仏への期待・信仰とを、混同しているのではと思われます。
信仰は信頼の置き換えのようなものであって、余程ねじれた家族関係で無い限り、親には信頼を置くのが普通です。
親はその親(祖父母)に、その親(祖父母)はその又親(曾祖父母)というように、信頼は溯って行くのが人の本性です。
*天造の叡智、人造のすり替えとその弊害
その一番の大元を神、とするのが日本人、延いては人類本来の叡智です。
天国(高天原・日の若宮)や地獄(黄泉)への考え方と同じで、必ず天国へ昇れるという死への癒しが目的(脅しが目的ではない)です。
死んで帰って来た人はいないので証明は出来ないものの、人類が永く積み上げ世界中に伝わって来た叡智です。それを、
人が造った教えが教団の存続・維持・拡大に自らも目を眩ませながら、教えを脅しのようにすり替えたのは勘違いか悪知恵です。
そうした脅しに対抗する心から『信仰等しない』と自他に言い聞かせ、或は不遜な自慢をする人達が出て来たのだと考えらます。
自分の頭・胸・腹の内を心を凝らして覗いて見ましょう。自分に掛かる七罪(怠・詐(嘘)・貪・憤・慢・憂・怨)を取り除いた後は、極小ながら神と同質の綺麗な心です。
私達の霊魂は別天神五柱の分霊(ぶんれい)を戴き、身体は木火土金水十柱から造られた、神の子です。神と私達は親と子のように、信頼延いては信仰を行うに、自然な関係です。自身の信仰心とその対象は何かが意識出来ればと思います。
*信仰があるとは
信仰があるというのは、「私は親や先祖を信頼します。」と言う事で、御利益の神への信仰とは本質も違うし、大きなずれがあるのです。
御利益はこの信仰により心身の健康な生活を続けていれば、自然と得られるものです。
信仰は、未知な物があるという自らへの戒め、謙遜の心でもあります。
・神の存在の受け止め方
2)の結論(神の存在を知る)の前に、色んな観点から神の存在について考えて来ました。
神の心は人間が幾ら踏み入ってもまだ深い『誠(天津・事=神の教え伝える事)』です。
踏み入る前、或は踏み入ろうとしない人には、神は例えば透明な壁のようにしか感じられません。本教の例え話で、象を触る盲人のようなもので、頭を触れば大きな石・胴を触れば壁・足を触れば太い柱と感じます。
耳を触れば大きな紙・鼻を触れば柔らかい柱等、感じ方は人によっても違うものです。
神はこのように莫大過ぎて、推測は出来ても全てを把握することは出来ません。しかし、大元の祖先で有り善悪を越え慈愛に満ちた『誠』であることを、存在と伴に理解したいものです。日本人が先祖を祀るのは、以上の考えの実践なのです。 第一条2)おわり