()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))

   (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

第一条神の心にそむくことなかれ3

2)神様の存在を知ること2

・気付きにくい(ばく)(だい)なる神の心

 本教では、人の魂は神様の(ぶん)(れい)(わけみたま)と考えますがとても小さく、人の頭・理性で神の心の全てを()(はか)ることは出来ません。

 (こう)(だい)な神の心を、小さな人間の理性・科学で(てい)()づけようとする事は()(ぼう)です。

 反発や先入観から神について(せん)()だてする人は、あるがままのこの楽しい世を、(はかな)いとか嫌な世の中と思い(あやま)る事になります。

 せっかく神が(あと)()がせようとして世に出した人が、世を(はかな)むのは自殺をするようなもので、神もがっかりされることでしょう。

 神の存在を、視点を変えて考えて見ます。

・神の存在を確かめる道筋(筆者付加)

 神の存在を主張することを科学的でないと言う人がいます。キリスト教に発した哲学のように、学問として(けん)(しょう)する事はあっても、反発や先入観からであれば(ごう)(まん)な行いです。

 では反対に、人の頭で考えた科学で神の不存在を証明出来るでしょうか。多分、存在も不存在も証明出来ないでしょう。

 このような次元の低い(どうどう)(めぐ)()の発想では、()()にも行き着きません。

 科学で証明出来ないものがある事と、その(ことわり)を認識する必要があります。

 神の心は、人類が永い時間を掛けて、死への(いや)しや信仰の中で段々と積み重ね修正してきた、人類の(えい)()(しゅう)(せき)とも言えます。

 哲学者デカルトの『(われ)(おも)(ゆえ)(われ)()り』と同じように、信仰の多くは()ず自分の心の存在を確かめることから始まるものです。

 その次に、親や祖先の心への尊重を通して、神の存在の気付きに(いた)るのです。

 神の心・存在は、ご先祖から受け継いだ生活の知恵と、自分の心の存在への気付きから、()(ぜん)(うかが)い知れるものです。

・性善説と性悪説(筆者付加)

 人の性は本来善なのか悪なのかと、古来 議論されてきましたが、本教はどちらと考えるのでしょうか?ここまでの話から(おのず)(から)その答えは出ていて、正確に言えば善でも悪でもなく、人の本性は神なのです。

 (ぜん)は《()し》で、(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は、《汚れ(よご)()り》で、私達の心から罪が去った状態を言います。善も正解に近いものの、悪→善→より良い善への(はらい)と同質の志向心が神です。(ちな)みにその反対の(あく)は《()し》で、本言は《(あか)り・()り》で、私達の心から神の(あか)り(=)が去った状態を言います。

・信仰が無いと言う人1(筆者付加)

 *(かん)(ちが)いの信仰の対象

 親の親の 親の大元 神なれば

  子の子の末の 人も神なり(人道百首)

 時折「特に、又は特定の信仰が無い」と話す人を見かけます。余程信仰に頼ろうと 思った時もあったが何とか踏み止まった等と、自慢のように語る人もいます。

 しかし信仰が無いと言う人は、一体何に対しての・何を期待しての信仰を(そう)(てい)しているのでしょうか?信仰の対象を何か別の物と()(あやま)っているのではないかと思えます。

 不確定な物を()()えようとする人の本能なのか、(じゃっ)(かん)いかがわしくは感じても、救いや()()(やく)への期待という欲でしょうか。

 又、自分の人生の()(しん)(あん)()を与えてくれるかも知れない等の、未知の力への期待等であれば、(かん)(ちが)いです。

 *本来の信仰の対象

 人は先ず自身と比較しながら親を信頼し、親を生んだ祖先を信頼します。そして祖先を生んだ大自然・宇宙を神として(そん)(すう)するという筋道があります。この親や祖先への信頼を、本教では(多分世間一般でも)信仰と呼びます。

 神はその延長上にあるので、()()かの教祖が突然指定する神仏等ではありません。

 本来の信頼・信仰の対象は父母であり、その祖父祖母であり、もう少し智恵が(めぐ)るならば、目に見えない祖先です。その大元に大自然・ 宇宙があり、本教ではそれを神と言います。

 救いや()()(やく)()(しん)への(あん)()は、信仰者には願わずとも自然に(いただ)けるものなのです。

 *(さみ)しい考え方

 信仰が無いというのは、『自分は願って父母の(おん)(けい)を受けたのではない。これからも自分で生きて行きます。』と、親や先祖への不信を宣言するような事で、大変(さみ)しい考え方です。

 (じょう)()()((しょう)(じょう))仏教の修行僧を連想します。

 助力を受けても感謝は薄く(つつ)(かく)し、(たま)に行う(こう)(けん)も投げ与えで(ごう)(まん)を伴う、自分に (きび)しいようで実は手前勝手な考え方です。

 信仰が無いというのは、この様な(けもの)(みち)に (はま)()む危険性を高めます。

 *本来の信仰の在り方

 戴く時は心から感謝し、与えるのではなく分かち合える、と喜ぶのが人の(ほん)(せい)です。

 心掛ければ誰でも歩める人の道であり、もっと楽に人生を楽しめる(よう)(りょう)でもあります。

 本当の信仰の対象は、御利益・契約の神仏等ではありません。(とも)に世に役立とうと夢中になる中で、気が付けば至高の喜びを分かち合う親・祖先・神です。又、家族・子孫であり後輩・同僚・先輩・社会でもあります。そして私達は、その神の(わけ)(みたま)(さず)かり持つ神の子です。

 *本来の神とは

 天国・極楽等に行く為の神仏ではなく、神とは(さと)りを開かずとも(すで)()(けん)(ゆう)(いっ)(かん)の  健康・(れい)(こん)(あん)(てい)の道を示すものです。私達は大元の親である神の教えを、心を()ませて活用したいものです。神、又目に見えない祖先まで信頼出来ない人も、せめて父母や祖父母までは心の(より)(どころ)としたいものです。 (つづく)

自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦
2015−10
平成27年10月号  No.1220