教誡十箇条(略解の詳解)4
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第一条神の心にそむくことなかれ3
2)神様の存在を知ること2
・気付きにくい莫大なる神の心
本教では、人の魂は神様の分霊(わけみたま)と考えますがとても小さく、人の頭・理性で神の心の全てを推し量ることは出来ません。
宏大な神の心を、小さな人間の理性・科学で定義づけようとする事は無謀です。
反発や先入観から神について詮議だてする人は、あるがままのこの楽しい世を、儚いとか嫌な世の中と思い誤る事になります。
せっかく神が跡を継がせようとして世に出した人が、世を儚むのは自殺をするようなもので、神もがっかりされることでしょう。
神の存在を、視点を変えて考えて見ます。
・神の存在を確かめる道筋(筆者付加)
神の存在を主張することを科学的でないと言う人がいます。キリスト教に発した哲学のように、学問として検証する事はあっても、反発や先入観からであれば傲慢な行いです。
では反対に、人の頭で考えた科学で神の不存在を証明出来るでしょうか。多分、存在も不存在も証明出来ないでしょう。
このような次元の低い堂々巡りの発想では、何処にも行き着きません。
科学で証明出来ないものがある事と、その理を認識する必要があります。
神の心は、人類が永い時間を掛けて、死への癒しや信仰の中で段々と積み重ね修正してきた、人類の叡智の集積とも言えます。
哲学者デカルトの『我思う故に吾在り』と同じように、信仰の多くは先ず自分の心の存在を確かめることから始まるものです。
その次に、親や祖先の心への尊重を通して、神の存在の気付きに至るのです。
神の心・存在は、ご先祖から受け継いだ生活の知恵と、自分の心の存在への気付きから、自然に伺い知れるものです。
・性善説と性悪説(筆者付加)
人の性は本来善なのか悪なのかと、古来 議論されてきましたが、本教はどちらと考えるのでしょうか?ここまでの話から自然その答えは出ていて、正確に言えば善でも悪でもなく、人の本性は神なのです。
善は《善し》で、本言(その言葉の持つ本来の意味)は、《汚れ・去り》で、私達の心から罪が去った状態を言います。善も正解に近いものの、悪→善→より良い善への祓と同質の志向心が神です。因みにその反対の悪は《悪し》で、本言は《明り・去り》で、私達の心から神の明り(=徳)が去った状態を言います。
・信仰が無いと言う人1(筆者付加)
*勘違いの信仰の対象
親の親の 親の大元 神なれば
子の子の末の 人も神なり(人道百首)
時折「特に、又は特定の信仰が無い」と話す人を見かけます。余程信仰に頼ろうと 思った時もあったが何とか踏み止まった等と、自慢のように語る人もいます。
しかし信仰が無いと言う人は、一体何に対しての・何を期待しての信仰を想定しているのでしょうか?信仰の対象を何か別の物と見誤っているのではないかと思えます。
不確定な物を見据えようとする人の本能なのか、若干いかがわしくは感じても、救いや御利益への期待という欲でしょうか。
又、自分の人生の指針に暗示を与えてくれるかも知れない等の、未知の力への期待等であれば、勘違いです。
*本来の信仰の対象
人は先ず自身と比較しながら親を信頼し、親を生んだ祖先を信頼します。そして祖先を生んだ大自然・宇宙を神として尊崇するという筋道があります。この親や祖先への信頼を、本教では(多分世間一般でも)信仰と呼びます。
神はその延長上にあるので、何処かの教祖が突然指定する神仏等ではありません。
本来の信頼・信仰の対象は父母であり、その祖父祖母であり、もう少し智恵が廻るならば、目に見えない祖先です。その大元に大自然・ 宇宙があり、本教ではそれを神と言います。
救いや御利益や指針への暗示は、信仰者には願わずとも自然に戴けるものなのです。
*寂しい考え方
信仰が無いというのは、『自分は願って父母の恩恵を受けたのではない。これからも自分で生きて行きます。』と、親や先祖への不信を宣言するような事で、大変寂しい考え方です。
上座部(小乗)仏教の修行僧を連想します。
助力を受けても感謝は薄く包み隠し、偶に行う貢献も投げ与えで傲慢を伴う、自分に 厳しいようで実は手前勝手な考え方です。
信仰が無いというのは、この様な獣道に 嵌り込む危険性を高めます。
*本来の信仰の在り方
戴く時は心から感謝し、与えるのではなく分かち合える、と喜ぶのが人の本性です。
心掛ければ誰でも歩める人の道であり、もっと楽に人生を楽しめる要領でもあります。
本当の信仰の対象は、御利益・契約の神仏等ではありません。伴に世に役立とうと夢中になる中で、気が付けば至高の喜びを分かち合う親・祖先・神です。又、家族・子孫であり後輩・同僚・先輩・社会でもあります。そして私達は、その神の分霊を授かり持つ神の子です。
*本来の神とは
天国・極楽等に行く為の神仏ではなく、神とは悟りを開かずとも既に在る顕幽一貫の 健康・霊魂安定の道を示すものです。私達は大元の親である神の教えを、心を澄ませて活用したいものです。神、又目に見えない祖先まで信頼出来ない人も、せめて父母や祖父母までは心の拠所としたいものです。 (つづく)