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                                                          2014−9

平成26年9月号  No.1207

        

                 自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦

八徳Bの陰徳1
幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪をう。3.神気を戴く(長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです。
   (古神道・神理教を“本教”と記します)

 冒頭4.八徳の1番目の健康3をお伝えします。
1.七罪2.祓の守りから、3.長呼吸法4.八徳と、段々攻め(積極策)に転じています。

 

 (ぼう)(とう)4.(はっ)(とく)Bの陰徳1をお伝えします。

1.(しち)(ざい)2.(はらい)の守りから、3.(ちょう)()(きゅう)(ほう)4.(はっ)(とく)と、段々攻め(積極策)に転じています。

 

(いん)(とく)1・心得違いの(いん)(とく)

 (いん)(とく)(けん)(きょ)(ひか)え目な反面、()(そん)(しん)()()(けん)()(よく)も含む言葉です。

 (いん)(とく)の本来の教えは、()(しょう)(ほう)()()もりが(とく)となり、気が付けば結果的に現実でも 物心両面の得となる、というものです。

 しかし、私達はその結果を意識する余りか、得として返ってこない現実に直面すると、 ()ぐに(あせ)りや(いら)()ちを(おぼ)えがちです。そして、本来の教えや神仏にさえ(うたが)いを(いだ)いてしまうのは、(あさ)ましく(あわ)れなことです。

 それでも(じゃっ)(かん)残っている良心で善事を 行う時は、どうせ%凾フ質の低い(たっ)(かん)から、投げやり・あきらめの奉仕となります。

 そうなると、させて頂く≠フではなく してやった≠ニなってしまいます。そこで、

してやったのに出来ない≠ニ相手の無気力・無能力を()め、(あるい)(なげ)くことになります。

 しかし実はその前に、自分の(こころ)()(ちが)いからの(こと)(だま)(悪口)が自他の(じょう)(じゅ)(さまた)げているのです。前に向く気持ちはあっても、質の低い心掛けでは、返って与えた積もりの相手からも反発され、逆効果や(さまた)げにもなります。

 心が薄く質が低ければ同じ時間と労力・ 金品を(ついや)しても効果も薄く、無力感の(れん)()(おちい)ってしまいます。

 奉仕とは言え、神祖の力を(いただ)いて(おこな)って いるのですから、それを()()(づか)するのは、(おそ)れ多い(つみ)です。御教祖の教歌に、

(ふし)() (かみ)(まも)() ()えぬなり

 人は(わす)るる 時のありとも ((しん)(とく)(ひゃく)(しゅ)

(私達は時折、神から守られていることを忘れることがあります。しかし神の守りは昼夜を問わないものです。有り難い事です。)があります。忘れる時≠ニはどんな時でしょうか。

 誰にもある、ボンヤリした時に忘れることを()しているのではありません。

 ここでは、私達(ほん)(きょう)(じん)(おちい)りがちな、奉仕はしているのに自分でも気付かず、不満・不審を持ってしまうことを()しています。

 そして、親切をして上げている積もりの人への(いら)()ちを口に出し、神にも疑問を向けている状態を忘れる時≠ニいうのです。

 (まさ)(ゆくり)(なく)(知らずに)(おか)している(つみ)です。

 御教誡九番目の『教えの(とが)(びと)…』となってしまいます。

 一般の人から気付かれる事は少なく、(ほん)(きょう)(じん)から(さと)される事も少ない罪ですから、自分自身で振り返り(しっか)りと見直すべきです。

 御教祖の《(しん)(じょう)》第35条に、

【…善悪は、心に問うべし】とあります。

 (いん)(とく)(ほん)(きょう)(ことわり)を知り、()誠意を以て行う必要を伝える比較的高度な教えです。

・勘違いの陰徳

 (いん)(ぎん)()(れい)という言葉があります。本人は(へりくだ)っているつもりでも、実は神祖や相手への礼を失しているというものです。

 例えば、人の意見を(やみ)(くも)にハイハイと受け入れる様子を見ると、馬鹿にされているのかと(うたが)われます。

 又、下位の(きょう)(ゆう)(じょう)(せき)(ゆず)積もりで下座に座っても返って皆を恐縮させ、多くが(はし)や入口付近に集中することがあります。気付かぬ内に皆を端に追いやっているのです。

 上席が好きだと誤解されても、自分なりの位置に合わせ、皆を引き上げる事が優先です。

 又、自分は人に親切をしても、人の(こころ)(づか)いは(かたく)なに受け取らない人がいます。

 好意を受けると徳が減るとでも、勘違いしているのかも知れません。

 昔の(しょ)(みん)生活のように、貸して借されて 心を通わせ合うのが、人の本来の姿です。

 又、陰徳だからと、全て自分の善行を人に隠し通すのも(いか)()かと思われます。

 (けん)(そん)と思うのは(どく)(だん)で、神や相手に(れい)(たん)な印象を与え、返って不愉快な思いをさせる事があります。教書《(あん)()(とう)(だい)[作業]に、

(てがら)(ほこ)ればその口の下に消ゆ】があり、

「自分が手柄を立ててやった」と威張ると、その徳は(たちま)ち消えると教えます。

 しかし、威張らなくても隠す必要はなく、(ぜん)(こう)()す背中を見せるのは、次に続く人を(うなが)す大きな徳積みです。百人一首に、

(しの)ぶれど 色に出にけり ()(こい)

 ものや思ふと 人の問うまで ((たいらの)(かね)(もり)

があり、(こい)しい人を思う気持ちは我慢しても()(しき)に出てしまうように、反対に(けん)()(かん)や 不誠実も(かお)(いろ)に出て人に(さと)られるものです。

 (ぜん)(こう)(あく)(ぎょう)意識して行わない場合がありますが、意識があっても共に行ったからには、()(やみ)に隠すべきではありません。

 (ぜん)(こう)は隠さぬ事で後に続く者に勇気を与え、(あく)(ぎょう)は隠さぬ事で早期の(はらい)となります。

 (かた)(けん)(そん)(かた)(おお)(はじ)、隠したくなる気持ちは分かりますが、勇気を出すところです。

 誇る必要はないが、隠しおおすこともなく、自然体が良いのですが、そうした(ちゅう)(よう)とは難しく感じるものです。心得違い・勘違いを乗り越えて行く陰徳(きょう)()は、高度なだけに達すればそれだけ(ここ)()の良い(しん)(ずい)(さと)りです。

 決して難しい事はありませんから、次号でその道を共に確かめましょう。   (続く)