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                                                          2014−7

平成26年7月号  No.1205

        

                 自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦

八徳のA誠実3(教祖御歌)
   
 幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪を祓う。3.神気を戴く(長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです。
   (古神道・神理教を“本教”と記します)
 

 

 (ぼう)(とう)4.(はっ)(とく)の一番目の健康3をお伝えします。1.(しち)(ざい)2.(はらい)の守りから、3.(ちょう)()(きゅう)(ほう)

4.(はっ)(とく)と、段々攻め(積極策)に転じています。

 

(せい)(じつ)(教祖御歌)

・誠の()(うた)((かみ)()に誠)

M(あま)()こと(=(まこと)) (そむ)()てては (つた)()

 (うじ)(かばね)も ()()つるなり (桃の一枝)

(神の御心{=自分の良心}(そむ)いた心持ちや行動をすれば、子孫も親族も絶えてしまいます。

 だから神の御心{=自分の良心}に従う素直な心を持ち、それに添った行動しましょう。)

・誠の()(うた)((しも)()に誠)

N玉の緒の 命の限り 尽くせただ

 誠を神の 姿にはして    (神徳百首)

(神とは大元の祖先、(すなわ)私達の(れい)(こん)(きょう)(きゅう)(もと)です。従って真の自由とは、神と目的を共有することです。私達は神の子・神の(わけ)(みたま){ぶんれい}であり、使い走り等ではないのです。

 

 ここが理解出来れば、相手が誰であれ神 {=自分}の心のままに素直に尽す姿は、(まさ)(とうと)い神そのものです。私達はそうした気持ちで嬉しく楽しく進んで行きましょう。)

O目に見えぬ (あま)()(かみ)(わざ) 目に見せて

 人の誠の (みち)しるべせむ   (桃の一枝)

(天在諸神の御神徳を、皆は目に見えず確かめられないと思っていることでしょう。

 しかし、教理を学び共に祈りを(ささ)げる時、必ず神の力は確かめられるのです。

 私はそれを、人が本来の信仰の道を進む為の(みち)(しるべ)して示します。)

 これは、明治13年の開教の前年に(うた)われた、三大教歌の一つです。《先月Hと重複・別解釈》

P(つみ)(とが)は やがて消えなむ (あま)()()

 神の誠の 道に入りなば   (人道百首)

(誠を尽すという神の道に入ったならば、その心掛けにより、(つみ)(とが)(はら)(きよ)められ、(つい)には消滅してしまうでしょう。)

 

:神道の(つみ)(とが){=(とが)}とキリスト教の(げん)(ざい)仏教の(ごう)との似ていて決定的な違いは、神道は(つみ)(とが)を犯した本人と子孫の反省と(はら)いによって、これを()くことが出来る点です。

 これは、神道の(たか)(まの)(はら)(()(わか)(みや))()(みの)(くに)・キリスト教の天国と地獄・煉獄・仏教の極楽と地獄の関係にも言える決定的な違いです。

 他が一旦行くと戻る可能性が低い、或は気が遠くなるほど時間がかかるのに対し、神道は反省への気付きと(はらい)によって、神の国に帰り昇ることが出来る点です。他教が自然の教え(=神道)を真似る際に、(おど)しの手法として着眼し、より厳しくしたのではと考えます。

 

Q祈りても 願ひてもまた 甲斐(かい)ぞなき

 誠の道に ()らぬ(かぎ)りは   (桃の一枝)

(Pの真逆で、誠という実{=精神}が入らないと、誠のない祈りや願いは、生命力のある実態、喜び楽しみが(みの)ることはありません)

:誠は幕末の新撰組の旗印に使われ、人によっては不快(=暴力)な思いを持つことでしょう。

 しかし誠は本来、神の御心を表す言葉の元であり、この言葉を理解し、この言葉を心とすることにより、神の子である真の人間性を発揮することが出来るのです。

R(うわ)()をば (かざ)りて神を 拝むとも

 心に誠 なきは(ただ)(ごと) (人道百首)

(Qと同じで、幾ら見た目に拝礼の形を作りそれを他人に評価して貰っても、心に誠がなければその(まま)何も変わらず、拝んでも神に通じない結果を他人に不審がられます。)

S善きを助け (あし)(やっこ)を (きた)むるぞ

 神の教へし 誠なりける  (教えの百首)

(善い{=(よご)れ・()り}人は助けられ、悪い{=(あか)り・()り}者は(きた)める{悪い心掛けを指摘する}というのが、神が教えるところの誠です。)

:(さい)(かつ)ながら、誠の(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)(あま)()(こと)(=神の意志)であることから、この場合、誠を神の教えとも(とら)えています。

 元来神は格別の(ほう)()(ばつ)を与える存在ではありません。善い事をすると(とく)(たま)まり(つみ)(はら)われることから、自然に(しん)()(めぐみ)を受け、褒美を戴いたように感じます。又、悪い事をすると徳が減り(つみ)(かぶ)(けがれ)(=()()れ)となることから、神祖の(まも)()が無くなるのです。(すなわ)、今悪い事をして無くても、運勢の波に流され傾いた時に救われず、(ばつ)を受けたように感じるのです。

『自分は悪い事をしてないから信仰する必要はない』と言う人がいます。不幸になれば、やはり神仏等はいない、と更に思い込みがちです。

 悪い事をした人が良心の()(しゃく)()えかねて信仰する、というのも思い違いです。(これ)()は、自分一人で(いん)()(おう)(ほう)()(けつ)する考え方です。

 神道は自分が知らずに((ゆくり)(なく))犯しているかも知れない罪に加え、先祖の善悪も背負っているという、幅広い視点から見直す教えです。

 これが、誠の教えであり、普段から誠を尽す事の大切さの()(えん)す。

(うみ)(のこ)の (いや)()(つづ)きに (さか)ゆるぞ

 神の教へし 誠なりける   (内伝百首)

(()(そん)が今後も何十代にも渡って続き、且つ栄えるのは、神の心である誠の教えを守っているからです。)

:祖先信仰を行う日本では家名の存続は大切な事ですが、現代は少子化等・昔は戦争や病災等で難しいものです。しかしここでは、人が何十代にも渡って繁栄と共に継続するのは、当然のように出来る事だと言っています。その為には誠の生活を行う事だと教えているのです。

(うぶ)()()の 神の作りし (おほ)()(みち)

 行くこそ人の 誠なりけれ

(私達の先祖である神が作られた、その()(とう)な子孫としての人が歩くべき(おほ)()(みち)を、素直に堂々と自信を持って歩くことが、即ち誠の心掛けを踏まえた生き方なのです。 (続く)