冒頭4.八徳の一番目の健康を伝えます。
1.七罪 2.祓の守りから、3.神気4.八徳と、段々攻めの教え(積極策)に転じます。
健康
・健康の為に心掛ける事、三つ
先ず@、私達自身の心身が健康かどうかを振り返って見ましょう。若い方でも何らかのストレスを持ち、そこから派生したかは不明でも、痛みや違和感を持つ人は多いでしょう。
一つなら《一病息災》で、返って健康を気遣って良いとも言いますが、複数や一つでも重篤で、青息吐息の方も居られるでしょう。
反対に元気な方も居られます。そこで、
次にA、健康になりたい・保ちたいと志向する強い心と、健康になった自分を想像する希望と夢を持つことが大切です。
同時に、少しでも健康になる・保つには何をすれば良いか、前向きに取り組む決意を持ちましょう。
その次にB、辛い思いをしている方は健康になった自分を想像し、既に健康な人は何故有り難い状況を戴いているか考えましょう。
そこに共通するのは、神・祖先・祖父母・両親・社会への感謝の気持ちだと思われます。
辛さが原因の無感覚や不満から、意欲と感謝へ心の向きを変えるだけで、何かが必ず良い方に変わって来るはずです。
元々健康な人には一層の開運・上根の信仰となります。
・不幸と幸福の因子(徳と不徳)
時折触れる事ながら、悪い事をした人がいきなり不幸になる事はなく、良いことをした人も直ぐに幸運が訪れる訳ではありません。
それは、本人とその祖先が持つ、徳と不徳のバランスに依るからです。
徳の方が多い内は少々の悪事をしても不幸にならず、不徳の方が多い人はそれに見合う以上の徳を積まなければ幸運となりません。
非科学的だと思われる向きもあるでしょうが、筆者は計算が出来るくらい理に適っていると考えています。
宗教や道徳・倫理の団体によって、名称や量り方は違っても、基本はここにあります。
又、徳を積む事が良い事が広まれば、同時に世の為人の為にも役立つのです。
不測の運命の中で生きる私達が、善を積み悪を犯さぬよう心掛けるのは人類の叡智・必然なのです。
だからこそ本教の幸福への道程が、具体的に世と人の繁栄・開運の一挙両得への近道として活きるのです。この意味で本教は組織の論理や過剰な修飾儀礼を重んじる排他的宗教と違い、外にも開かれています。
簡易且つ、役立つ引き出しの多い教えです。
・健康の為に行う事、三つ
幸福への道程を辿るのは当然ながら、辛さが強い人は、先ず@大元の神(天在諸神)への祈りから始めましょう。祈れば通じることから、必ず光明を見出せ、希望が湧きます。
次にA御教祖は【祈れ、医{薬}れ】と教えています。祈りだけに頼るのではなく、セカンドオピニオン(第2の意見)を求めて、具体的な行動を起こしましょう。祈れば良い医者や新技術や薬に巡り会うこともあるのです。
その次にB健康な方でも、食事や嗜好品への偏りに注意し・歩く等心掛けましょう。又、
祝詞奏上で声を出す(息を吐く)事自体が健康法ですし、大祓・天神奏詞等の祝詞は自分だけでなく、世を祓う社会奉仕でもあります。
・先ず自分の霊魂の安定、次に他者の幸福
自分が不健康や貧乏借金その他で心が不安定な状態の時に、信者さんや家族の健康や幸福を祈る気持ちにはなれないものです。
又、もし本教の教師・信徒として祈る義務感があっても、心が不健康であれば、信者さんや家族は不安で敬遠される事でしょう。
自分の霊魂が安定した状態であってこそ、祈りにも力が籠もり、世の為人の為に役立てます。そこで、信者さんや家族・子孫を守り、守った人と喜びを分かち合うという、より質の高い楽しみを得る事が出来るのです。
これが“自分や子孫の安心の為、又世の為に徳を積む”という至上の喜びなのです。
御教語の第十九節に、
『神の御心に叶うたとは、身代・人格・永続の揃ったのをいう。…』がありますが、例えば身代、いわゆる財産も必要な物です。
決して金品は穢い物ではなく、自分が借金や貧乏で家族の生活にも不安を持ちながら、他人の心配をするのは自然とは言えません。
先ず自分の足下をしっかりと固め健康や必要充分の身代を持ち、次に世の為人の為子孫の為に役立つ楽しみを深めたいものです。
自助努力と社会奉仕のバランスを考えて、実行して行きたいものです。(続く)