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2014−11
自然(おのずから)の道(みち) |
管長 巫部 祐彦 |
八徳Cの施捨 |
幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪を祓う。3.神気を戴く(長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです。 (古神道・神理教を“本教”と記します) 冒頭4.八徳Cの施捨をお伝えします。 1.七罪2.祓の守りから、3.長呼吸法4.八徳と、段々攻め(積極策)に転じています。 施捨 ・施捨の本質 施捨は喜捨・報謝等、似た言葉があります。 具体的に、災害義捐金や社寺や社会奉仕 団体への寄付等を前者とし、賽銭や祭事の 初穂料等を後者として比べて見ます。 この二者は、一般に受け止め方が違うように感じます。即ち、前者は施捨による祓、 後者は拝み賃・祭事への御礼という感じです。 しかし、実は後者も拝み賃・御礼は間違いで、後に述べるように、同じ祓なのです。 神は金品による対価等は求めず、金品より上の価値を知り金品に拘らない潔さを、 神と同質の清明と喜び、受けられるのです。 まあ、現実はどちらも運営費となりますが、元は共に清さ(神)へ志向する心の動機であり、同じ施捨という純粋な祓の行動です。 金品を無駄なく(=施し)捨てる事は、 禊(=身を削ぐ)と同じ行為なのです。即ち、 過分な欲や奢侈の心を、金品の施捨や祈り・ 労役(八徳の一つ)等によって削ぎ除くのです。 施捨は清々しい心身となる事で、神祖と通じ交わるという古来から伝わる手法なのです。 ・施捨の歴史 神道は恰も言語のように人類の叡智を積み重ねた天造教で、1〜少数の天才が創った人造教ではありません。 1〜少数の天才では言語が創れないように、宗教も多くの天才と年月による信仰の叡智の積み重ね以外に出来るものではないのです。 施捨という叡智が積み重なったのは、須佐之男命の故事に依るとされます。 それは日本最古の書である古事記(712年)や日本書紀(720年)に記されています。 簡略に触れると、須佐之男命は本教の天在諸神(主祭神)の最後(18柱目)の天照皇大神の弟にあたります。 父伊邪那岐命に海原を治めるように命じられたことに不満を持ち、父の不快を買いながらも、母伊邪那美命の元に行こうとします。 その前に、姉天照皇大神に挨拶に行く時の様子が余りにも荒々しいことから姉に疑われますが、誓約により一旦は晴れます。 注:誓約=互いの持ち物(姉の玉と弟の剣)から 神を生み合い、剣から三柱の女神、玉から五柱の男神が生れた。 しかし、慢心(七罪の一つ)した弟神は天上で暴れたあげく、姉神の天之岩戸隠れの事件の後、その罪を問われることとなります。 そこで『千位の置戸を負せ(多くの台に置き並べる程の、沢山の贖物)』という財産刑と共に髭や爪を抜かれるという体刑を受けます。 この故事を元として、当時の知識人達は、刑として取り上げられる前に贖物をする事で祓に(予防にも)なる、と考えたようです。 罪を犯さない為に先に金品を差し出す・ 自分から金品を差し出す事で罪が祓われる、という教えが古代から伝わったのです。それが今の日本に広まったのだと考えられます。 ・施捨=祓の効用 須佐之男命の名誉回復と共に、この故事からのもう一つの教えを記します。その後、 私達の住む地上に降りられた命は、出雲国の斐伊川上流で、荒振神である八岐大蛇を 退治するという有名な功績をあげられます。 又、その戦いで得た草薙剣を天照皇大神に献上し、自身は櫛名田比売と成婚し、子孫も得て幸せに暮らされるのです。ここでの教えは、神も人も、もし罪を犯しても、反省と 共にその罪を祓う施捨の手法があることです。 それが出来れば又、こうして世の為に役立ち、神とも崇められるようになるという逆境克服の希望が現代に教え伝えられるのです。 時折お伝えする事ながら、他教の原罪や 業と違い、神道の罪に祓われないものはなく、反省と祓により、必ず救われるのです。 ・神に(=世の為人の為)役立つ 御教祖は御歌に、 世のために 宝すつるは 天津空に 蔵を建てると かはらざりけり(教歌百首) (世の為に宝を捨てる{=自分の持つ能力や 財産を活かし使う}事の大切さに気付き、 実行しなさい。目に見えなくとも、徳という素晴らしい財産を貯める事になる)と教えています。宝を捨てると言うと、すぐに宗教 団体等への寄付というパターン?を思い浮かべてしまうものです。しかし、それは他の 多くの教団に毒された寂しい発想と言えます。 宝を捨てるとは金品だけに捕らわれず、 自分の持つ能力を使うことでもあります。 罪を犯して財産を贖うようにならない 為にも、自分から世の為人の為に宝を役立てるという、積極的な意思が必要です。 自分の持つ能力や財産を、どうしたら世の為人の為に役立てられるかという見地から、まず自分で考えること、が大切なのです。 これが出来るように心を成長させることが、『天津空に蔵を建てる』(=自分の安心と子孫の為に徳を積む)ということになります。 この場合の宗教の役割は、そうした心を、正しい方向に効果的に導く為にあるのです。 |