冒頭2.祓をまとめられればと思います。
死後観の比較
先月、『神・祖先・親と私達の目的・関係は、実は互いを含む全ての幸せ(=神の世界の実現)・真の自由である。』
*神の世界の実現=一般に安心・充実・幸福、 本教では霊魂(四魂)の安定した社会の実現。
又、福岡伸一氏の説から、『それは、多分DNA(遺伝子)と私達との関係・目的も同じではないか。』というお話しをしました。
同氏の“人(生物)は一年もすると分子レベルでは全て入れ替わっている”は、仏教と神道の死後観の比較に使えます。仏教の“六道輪廻して解脱を目指す”と、神道の“祖先となって子孫を守る”の考え方の比較です。
物質(=分子)は変化し、色んな生き物に転生するのは“六道輪廻”に当たります。又、物質は変化しても霊魂(=精神)は不変不滅だからこそ自分の子孫を見守るのは“祖先となる”に当たります。ただ、筆者は六道輪廻の思想は、物質と霊魂を混同しのだと考えます。
仏教の死後観は、一般に輪廻転生し、解脱を目指して他の生き物に生まれ変わる、或いは極楽浄土か地獄へ行く説のようです。
キリスト教は、天国か地獄・煉獄に行き、最後の審判を待つと考えるようです。
古神道の本教は、大元の神の国である日の若宮(高天原・天津国)か、罪咎を祓う黄泉か、迷いの(木石水土等に憑く)世界の三つです。
本教は、帰幽すれば(死後は)先祖として自分の子孫を守ろうとするものの、日の若宮からしか守ることは出来ないと伝えます。
他教との相似点と相違点(生まれ変わり)
他教との相似点として、六道輪廻も最後の審判も、神道の祓いの目的と似ています。
相違点は他教の例えば地獄へ行きっぱなしに対して、本教の祓えば救われる点です。
エジプトの古代宗教もオシリスと言う、仏教の閻魔・神道の大国主命のような神がいて天国と地獄・罪の重さを別けるようです。
キリスト教も最後の審判がそれに当たるのかも知れません。
ところで、どの教えにも天国と地獄があるのですが、元は何だったのでしょうか。
それは古神道、即ち敬神尊祖の自然の信仰だと筆者は推測します。この天造の教えも停滞期にその道理が忘れられた時、人造の教えがこれを真似たのだと考えます。その時、人造教は皆、形だけ残った天国と地獄の教えを勧誘の脅しに利用したのではと思われます。
エジプトの宗教は、オシリスを欺く方法を記した死者の書で多額の金銭と共に信者を増やしたようです。
キリスト教は、犯したかどうかも分からない原罪を、キリストが替わりに背負ってくれるから入教すべきだとのことのようです。
仏教は生まれ持った業、というキリスト教と似たような物を創りだして信仰を促します。
人は弱いもので、隷属を促す教えの雰囲気にもろくも降参したのだと思われます。
本教では、もし迷いの世界で苦しんでいても、教えを守る子孫の祓いと本人の反省により、まず黄泉に行き罪を祓います。そこで月界(黄泉)の神は罪を許して日界(若宮)に送り還して戴くと、氏神となって子孫を守る喜びを得られるのです。神道は他教と違い、現世で祓えない罪はなく、自由・自発の教えです。
本教には『生まれ変わりは他人や動物になるのではなく、心を入れ替える(教語99節)』の教えがあります。それは祓いにも通じます。
生まれ変わっては子孫を見守る楽しみを得られず、先祖祀りも有り得ません。
罪を憎んで人を憎まず
この言葉は実に“言い得て妙”です。
先月号最後の見出し〈祓いは自由への道〉に記した上下・同僚との軋轢と解消と同じで、視点を変えることで心の自由が得られます。
軋轢からの憎しみは見間違えて人を憎んでしまうことから罪となります。自分と相手の罪に視点を変えて、自分と共に相手の罪の祓いを祈りましょう。そこで憎しみ・怨みに心身の健康を損ねることからも、互いに傷付けあう事からも開放されるのです。
まとめ
6回に及び祓いを論じましたが、振り返って祓う対象は人と人に関わる全てで、罪は冒頭1.の七罪に集約されます。
罪は包み隠す様々な要因からの原因で、穢れは汚いではなく神祖からの徳が枯れ生きる力を失うという結果です。
先ず祓いを行ってから御神徳を戴く、という神道の最大の神髄・悟りの一つ、日本人の信仰の文化を大切に、伴に幸福に邁進しましょう。