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2013−6
自然(おのずから)の道(みち) |
管長 巫部 祐彦 |
祓い5.(自由への気持ちの祓い) |
幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の罪を祓う。3.神気を戴く (長呼吸法)。4.八徳を積む。心掛けです。 (古神道・神理教を“本教”と記します) 冒頭2.祓の付属として、祓いと自由について考えましょう。 本教の自由 これまでも触れましたが、自由とは、実は神・祖先・親・先達の心に添うことです。 それは決して束縛ではありません。 ここへの気付きが神道の“神髄”であり、“悟り”の一つでもあります。確かに親や祖父母や上司・先輩と意見が食い違った時、逆らえず束縛を感じ、やる気を失う事もあります。 しかし、親や上司との意向や方法の違いは、枝葉末節に過ぎません。視点を変えて、もっと大局から自他を見直しましょう。 大元は自分を含む子孫とそれを包み役立ちあう幸せな社会であり、更には自分と子孫の幸せを見守る神と祖先の霊魂の安定です。 それは、兄弟姉妹・同輩・後輩も皆同じです。 人は神の分霊を戴いた神の子ですから、秩序感・正義感・自主性を生まれながらに持っています。親や学校や教会はそれらを教えるというより、真っ直ぐに育てて行く存在です。 従って、誰も本心から他人の不幸を願っているわけではなく、結果としてみんな一緒に幸せを得たいという基本指針は同じなのです。 神と同じく私達は此の世を神の世としたい、と潜在的に願っていると言えます。 方法が違うからと言って、束縛或いは否定されると考えるのは卑屈な勘違いです。 “祓い”も卑屈に考えると『祓いの主体が神ならば、祓いは神への従属に到る道付けに過ぎない』と受け取りがちですが間違いです。 先月までに述べた事ながら、祓いによって本来の素直な自分を顕すのです。 本教の自由を知ることにより、相手の本来の気持ちも理解出来、意見の食い違いくらいで人を怨むことも無くなるのです。 木の話 本教定番の例え話ながら、私達が子孫の末端の葉っぱだとします。 葉は本来、太陽から受けた光を光合成した有機物を幹・根に送り、また幹・根から栄養を受けて命を長らえます。 そこにある日、爽やかな風が吹いて来た時に、それを葉が“自由!”と勘違いをして、枝から離れるとどうなるでしょう。 暫くは心地良く大空を舞うこともあるでしょうが、やがて地に落ちて結果的に自らの命を短くしてしまいます。 葉っぱが出来る限り枝に付いて栄養を受けることが良いように、私達も精神という栄養を親・祖先・神に戴き続けるのが良いのです。 神とDNA(遺伝子) 『生物と無生物のあいだ』・『動的平衡1・2』等の著者福岡伸一氏がDNAについて述べた部分が、神への観念と似ていると感じました。 生物学で生命とは何かというと、『自己複製するもの』で、自己複製の単位はDNAだそうです。 生物学で人間とは何かというと、ホモ・サピエンス(智恵のある人)、或いはホモ・ルーデンス(遊ぶ人・いい加減な人)だそうです。その後、これを否定して『生物は自己複製をする遺伝子の乗り物に過ぎず、その行動は遺伝子に支配されている』という説が出たそうです。 この考え方は、私達が神に支配される奴隷のようなものとの考え方に似ています。 しかし、福岡伸一氏は『生命よ、自由であれ』を生物学から証明しようとしています。 氏は生命を『自己複製…』に加え、分子の流れの中で一定の状態を保っているという『動的平衡にあるシステム』としています。 氏によると、半年から一年で私達は分子レベルで全て入れ替わっているということです。 つまり一年経って「お変わりありませんね」と言い合う二人は、互いに全く別物なのです。 しかし、一年の老化に加え、記憶も病気さえも、そのまま残っているのです。氏は、DNAに生命複製機能だけでなく『自由であれ!』という命令機能もあると主張します。 祓いは自由への道 科学や宇宙の謎が解けることで神の不在が証明できる、という考え方もあるようです。 しかし筆者は、宗教と科学の究極は同じものに近い、という方向性を感じています。 即ち神からもDNAからも、人は支配されているように見えながら、実は生命の基本を支えられつつ真に自由なのだ、と考えます。 私達は普段不意(気付かずに)犯した罪に包まれて、見る目や考えが曇り、親や上司や同僚や部下と軋轢を起こします。 その時、お互いが自由を束縛し合い、考えが全く異なっていると思い違いますが、根本目的は同じく、互いの幸福にあるのです。 祓いは根本に帰る真の自由への道なのです。 |