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2013−2
自然(おのずから)の道(みち) |
管長 巫部 祐彦 |
祓い1. |
幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の犯した罪を祓う。3.長呼吸法で神気を戴く。4.八徳を積む。心掛けです。 (古神道・神理教を“本教”と記します) 冒頭2. 祓いの意義 神道一般に“一に祓い、二に祓い、三・四が無くて、五に祓い”と言われます。 その位、祓いは神道の神髄・極意・悟りとされ、本教も同じで大切にされますが、何故でしょう。祓いは罪・穢れと比較(後で説明)すると分かり易いようです。 祓いの方法は多様(来月説明)で、私達は常にハライ・ハライと言葉と方法を重ね、祓われ或いは自分で常に祓うべきと伝えられます。 しかし、神道では人間をやたらと祓うべき汚い存在だと考えているのでしょうか? 実はその反対で、私達が頭に宿す霊魂は神の分霊(わけみたま)であり小さな神です。 人の霊魂は天在諸神十八柱の始めの五柱である別天神から分け戴いた、清浄無垢で汚れのない、珠玉のような存在です。 是非ご自分に、自信と誇りを持ちましょう。 では何故そんなに祓うのかと言うと、神に比べて余りにも小さく、雑多な汚れに包まれ易いのです。従って決して汚いから祓うのではなく、反対に神から戴いた時の、小さな霊魂の至上の清らかさを保つ為なのです。 祓いの活用(罪・穢れとの比較) そこで、祓う前と祓った後とでは、どう違うのでしょうか。本教では、神と祖先と自分の例え話にダムの話をします。
上の図で言うと、天在諸神は徳の雨を降らす天であり、先祖はそれを溜めるダムであり、私達はその徳を受ける家庭です。 ↓ は水道管のように、神から先祖・親を通して神徳を配る導管です。 図は単純化していますが、両親から上の先祖は倍々に増え、子孫は子供の数だけねずみ算式に増えて行きます。 ・ ここでは深く述べませんが罪は、多くは不意(気付かずに)犯すものと、偶に故意(確信して)に犯すものとがあります。 不意は、例えば人に注意してあげて逆恨みされたり、自分が言われてそうなってしまったりする物等です。故意は現代の“オレオレ詐欺”等、最初から悪意や害意のある物です。 罪はキリスト教の“原罪”や仏教の“業”のように“祓えない物”ではありませんが、例えば自殺等、祓いにくい物もあります。 “先祖”や“両親”や“自分”の悪意や害意は抱く人の霊魂を包み隠し、“神”や“先祖”や“両親”からの徳を撥ね返してしまいます。 だから罪の本言(その言葉の持つ本来の意味)を、包み・隠す(→ツ・ミ)と言うのです。 又、“徳の導管”を詰まらせ、或いは傷付け、その結果、神からの徳(=気)が届かず、水が枯れるようになることから穢れと言うのです。 穢れの本言は気・枯れる(→ケ・カレ)であり、“汚い・卑賤”等という意味ではないのです。 ・祓いについて 平成21年の10月号にも述べましたが、罪は必ず祓いによって拭い去る事が出来ます。 祓いの本言は、日・顕せ(→ハ・ライ)です。 皆さん、前ページの図の“先祖”や“両親” や“自分”を一旦包み隠していた汚れが、綺麗に拭われた様子を想像して下さい。 (来月号に図示します) 人は“神の分霊”であり“小さな神”ですから、“先祖”や“両親”や“自分”を包む罪が拭われたらどうなるでしょう? 内部に魂の光を持った珠玉のように発光するのです。その様子がまるで日の出のようですから、日・顕せ(=祓い)というのです。 それは、霊魂本来の光が顕れ発光すると共に先祖や両親の光と同化して一層輝く様子を表す、大変目出度い言霊(言葉の霊力)です。 又、詰まってしまった神徳を配る導管も、祓いによってその汚れが取り除かれます。 祓いにより罪が除かれ、又気が通います。 ・祓いの心得 私達は、汚れた手からバイ菌や異物が口に入らぬよう普段食事を戴く前に手を洗います。 神祖を礼拝する時も同じで、まず体や衣服を清潔にして心を整え、悪意等が入らぬよう祓いで心を清々してから徳を戴きます。 この流れは、神道の拝礼作法の基本としてリズムのように身に付けておくと便利です。 罪は悪事を犯さなくとも、体と同じで不意心に付くものです。祓う前は曇っていた心の目が、祓いによって自然と晴れるのです。 |