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                                                          2012−9

平成24年9月号  No.1183

        

                 自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦

信仰を受け継ぐ1.(信仰とは)

 幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の犯した罪を祓う。3.長呼吸法で神気を戴く。4.八徳を積む。心掛けです。
   (古神道・神理教を“本教”と記します)

信仰とは何か?(本質・意義と目的)

・信仰に神仏の存在の証明が必要か

 2月から幸福への道程も、1.(しち)(ざい)が全て済みました。次の2.(はらい)の前置きとして、表題についてご一緒に考えましょう。

 まず、信仰の何たるかついて理解出来なければ、この表題を進めることが出来ません。

 現代人の多くは誰の言葉を信じたのか、

『神仏の存在を信じることの出来ない自分に信仰は無理』と考えるようです。筆者は、

『昔の人は《神仏の存在を証明出来なければ信仰しないと》、そんな大げさに考えていたのだろうか』と考えます。

 目に見えない親の愛情を感じ取ることが出来れば、その祖先やその又大元の祖先である、神なる自然からの愛情も感じられるものです。

 加えて自然の(けた)(はず)れた大らかさや厳しさへの感情を()()≠ニ呼びます。

 まずはそうした()()(目に見えない愛情や畏怖)への共通した思いが信仰心の基盤です。

 そうした()()への共通した思いの対象を、始めは空や海や山や湖や巨木や巨石や墓におき、時代が下ると(ちん)(じゅ)(もり)にもおきました。

 信仰には段階があります。

 私達の祖先は、こうした信仰の第一段階(人によれば信仰の全て)をもっと気軽に、心の(かて)・想像意欲として楽しんでいたのです。

 神仏の存在の証明や教義の理解等は、目先の科学や哲学を(かじ)っただけで出来る事ではありません。

 その段階は一般知識だけでなく、人生の経験と信仰一般、深くは本教の学びから、時間を掛けて自分で(つか)み取るものです。

 神仏の存在の証明が信仰の前提とする現代社会の風潮を自分の考えと勘違いして、自分の信仰心を否定するのは(いか)()なものでしょう。

 筆者には、《(めん)()(くさ)い・信仰は心の弱い者が行うもの・恥ずかしい等の思い込みで》逃げる口実にしか見えません。

 

・信仰で神仏から(そく)(ばく)されるか

『自分は信仰から自由』と言う人もいます。

《どの宗教も公平に見ることが出来る》と、信仰する人は神仏から(そく)(ばく)を受けていると言いたいのかな、と思います。筆者は、

《自分の信仰なくして宗教は分からない》と、

《束縛は勘違いと考えます。科学的根拠にこだわりすぎではないか、と思うのです。

 本教にも後述(来月)()(きょう)(かい)がありますが、社会に法律や道徳があって自由を確保するのと同じで放任の自由%凾ヘありません。

 本質・意義や目的を自覚した上での信仰こそが本当の自由なのです。筆者は信仰をしながら真の自由の喜び≠感じています。

・信仰とは(本質・意義と目的)

 この小見出しは、H5 912月とH21 4月号と重なる部分もありますが、まとめてみます。

 信仰は前ページの《心の弱い者が行うもの》ではなく、事実心の強い者も行っています。

 又、目に見えない神仏を信じるとか、死後の世界を(うん)(ぬん)することでもありません。

 信仰の本質・意義は、生きるに当たっての基本姿勢・心掛けであり、それは神なる自然を敬い・祖先を尊ぶこと((けい)(しん)(そん)())です。

 又、自分の徳を積みそれを(みが)くことであり、それは世界共通の信仰の文化と言えます。

 

 信仰の目的は、安心即ち霊魂の安定です。

 本教で言えば()(こん)(あん)(てい)≠ナあり、これを基盤に自己実現()に立ち向かえ、家族や社会に役立つという至上の喜びを得られます。

 信仰により親や祖先の存在に視野が広がることから、自分だけでない一層充実した人生とは何かに気付くことが出来るのです。

・生まれつきの信仰心

 よく、信仰しないというより、自分には信仰心が無いと投げやりに言う人がいますが、筆者はそれも勘違いだと考えます。

 神道一般に信仰の三原則があり、それは、感謝反省奉仕です。

 即ち、親や目に見えない御先祖や社会や自然に感謝し、又行っているかどうか反省する。

 感謝の気持ちが持てれば、自然への畏敬の対象である神前奉仕や社会奉仕の気持ちが生まれる、ということです。これは人間の自然の行為であり、これがある程度でも出来ている人は信仰の人≠ニ言えます。この辺りに考えが到れば、自分の思い違いに気付き、

「ああそうか、実は自分にも生まれつきの信仰心があったのだな」と理解・安心出来るのです。神道は自然に芽生える信仰と言えます。

 そこでようやく表題に移ることが出来、来月号では信仰と家業についてお話しします。