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2012−7
自然(おのずから)の道(みち) |
管長 巫部 祐彦 |
七罪(幸福への道程1.)の解説E 憂(うれい) |
幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の犯した罪を祓う。3.長呼吸法で神気を戴く。4.八徳を積む。心掛けです。 (古神道・神理教を“本教”と記します) 悩み事 いかに聖人君子であろうとも悩み事は付きものである、と言われます。 ゲーテの『若きウェルテルの悩み』は適わぬ恋についてでしたが、私達は人には言えぬ悩み事の一つや二つは抱えているものです。 それに加えて日常生活や仕事で、判断に迷ったり行き詰まったりと、逃げ出したくなるような苦しい思いをする時もあります。 まあ、悩み事があるから、それを克服しようとする過程で人生に深みが出てくるのでしょう。又、その過程を楽しむ猛者もいることでしょうし。私達もそうなりたいものです。 小泉元首相等『ストレスはストレスで発散する』と言う人は、この部類でしょう。 そこで私達はもう一歩進め、教えを通じてもっと確実に悩み・憂を解消し、出来ずともこれらと折り合って行く道を探りましょう。 煩悩への居直り 御教祖の覚書(今日訓)の六番目は、【今日一日、いかなる心配事あるとも、憂ふまじきこと】ですが、私たちの日常には憂うることが、一日に何回も起こります。 【憂ふまじきこと!】等と言われても到底無理で考えられない、と誰しも思われることでしょう。怠・詐(嘘)・貪・憤・慢・憂・怨の七罪は、私達の陥りやすい心の過ちですから、全て一旦陥ってもしようがないと言えます。 御教祖は七罪に決して陥ってはならない、一度でも染まってはいけない、と言っているのではありません。 先ずは七罪に陥り染まらないように気を付け、もしそうなってもなおざりにしないようにしましょう、と教えているのです。 悩み・憂は、『どうせ来るのだ』と一旦受け入れ、『来たものはしょうがない・よく来た』と、ふてぶてしく居直ってしまいましょう。 実はこの考え方はとても大切なのです。 禅の公案にも婆子焼庵≠ェあり、『若い修行僧を世話する老婆が、ある時娘を使って誘惑を試みる。しかし、枯れ木の心となったとしてその誘惑を断ち切って見せた修行僧に老婆は失望して庵から追いだし、尚もその庵を汚らわしいと焼いてしまう。』という一見成功者を批判する話への謎かけです。 ここでも誘惑への煩悩を一旦受け止めて、悩みの中から自分なりの道を導き出す大切さを説いています。煩悩は修行して追い出すものでも追い出せるものではない、という真理を訴えているようです。 人には言えぬような悩み事を心に含みながらも、平常心に近づこうとして過ごす人の方が、人格に厚みが加わるものです。 対処法・心の持ち方 悩みの本言(その言葉の持つ本来の意味)は〈奈=根・病む〉で、その人の持つ心とその奥底の霊魂が病気になる、ということです。 だから一旦受け止め居直ったにしても、そのままではいけません。ともあれ、そうした悩みに取り憑かれた時は、まず出来る努力をすると同時に神祖に祈り祓います。 しかし、それでもどうしようもない時もあります。その時は、もう逃げるのではなく一旦立ち止まって振り返り、甘んじてその大波を受けましょう。精神的な波に直接命を奪われることはないのですから。 反対にこちらから抱きすくめる位の気持ちを持てれば上出来です。それが無理な時は、膝を抱えてやり過ごしましょう。その時、転がされ・もみくちゃにされてもよいのです。 体に直接傷を負う訳ではないのですから。 出口のないトンネル・朝が来ない夜はありません。あきらめずに、出来る処置をし、信頼出来る人に頼り、神祖に祈る事で一層早く必ず明かりが射すものです。 私達は日々の生活の中で、平安に幸せに暮らしたいという当然の欲を持ちます。そしてその欲(目標・幸せ)を阻害する要因に襲われた時、悔しさや悲しさや無力感を味わいます。 でもこうした感覚を嫌うことは、自分を嫌うことと同じです。一見マイナスに見える感覚も神から戴いた大切な感情と知ることで、自分が好きになれます。これは大切な事です。 神は不要なものは一つもお造りになっていませんし、不要な人間も存在しないのです。 憂の祓い方・荒魂と施捨(八徳の一つ) 意外かも知れませんが、憂を除くには御先祖の荒魂の鎮まり処であるお墓に行きます。 そこで勇気を戴いて憂さを晴らすのです。 又、葬儀の時に悲しみを祓う塩を使うように、神社や慈善団体に施捨(寄付)をします。偶には自分への施捨(買い物)もよいでしょう。 |