心の弱さに気付くこと
私達の心は弱いものです。というか、そう考えていた方が、返って多様な困難に柔軟且つ粘り強く耐えられるように思います。弱いから負けるとあきらめるのではなく、弱さを知っているからこそ準備をするのです。
自分で強いと思い、又他からもそう評価されている人も見かけます。しかし、強さは頑固から準備不足で場当たりな無理となり、結局自他の心身を傷つけることがあります。
視点を変えると、強い弱いの自覚或いは評価に関わりなく、気が付けば心身症になっていることがあります。
これは例えば花粉症と同じで、要因と引き金があれば、耐えられる大きさは別にしても、誰にでも起こり得るのです。もし自分の心が他人より強くても、自然限界があります。
全力疾走を続けるのが無理と理解するように、自分の心の弱い部分に気付いている人の方が、返って心身症にもなりにくいのです。
慢る人
思い上がり自慢する様子を“驕り慢る”と言います。平家物語の名調子の一つに『驕れる人も久しからず』があり、人とは平氏のことのようですが、NHKのドラマ『清盛』を見ると、つい平家贔屓になりがちです。
平氏が本当に驕っていたのか、それとも平家物語が源氏の意趣返しに加担したのかは、史実を読み解いて検証されるものでしょう。
この言葉の続きに『春の夜の夢の如し』があり、驕る瞬間の心地良さが実感出来ます。
筆者は威張り慢る人を、つい好ましく思います。それは、慢るからにはそれだけの努力をしている場合を多く感じるからです。慢る為に努力をするというのは滑稽にも感じますが、その純粋な心を好ましく思うのです。
しかし、慢はその瞬間は心地良いものの儚く長続きしません。又、純粋とは言え慢の為の努力であれば空しいものです。
努力は世に役立つ目的の為に楽しみと共に行われ、子孫や社会の繁栄と感謝によって報われるのです。従って、慢は努力の報いではなく、努力の目先の発散に過ぎません。
慢の元
慢の元になる心の動きとして、達成感や誇りや喜びや威張り等が考えられます。
慢は成功を確かめる心の内への動きとして誰にでもあることで、非難されるものではありません。しかしそれが外に向かうと喜びや達成感や誇りの貪になります。
自分の心の中での誇は大切ですが、他人に誇り威張るのは、自分の心の目に被せ物をする罪(=包み・隠す)でありお勧め出来ません。
放っておくと自分を制御出来なくなり、他人の怨や憤という罪まで背負い込むことになります。他の六罪に比べ直ぐに酷くはならないものの、慢は“心の成長を止めてしまうもの”です。慢る自他を見て警戒信号とする、心を引き締める材料としましょう。
慢の誘因
・心の誘因
物事が思い通りに運べ成功すると、つい他に誇りたくなるものです。又、普段からの引け目とか劣等感の裏返しのように、心が一気に開放され周囲に一層誇りたくなります。
誇りは自分や民族や国の為に失ってはならないものですが、それを貪ると単なる威張りや慢に陥ります。又、普段の不安を自他に押し隠そうと、虚栄を張る為に慢るのは哀れなことです。自分の存在を回りの人に示すのは健康な本能ですが、他に誇ることや引け目や不安の裏返しが理由では不健康です。
・職業の誘因
人に頭を下げる習慣が少なく、周囲から下げられる方が多い職業も誘因があります。
筆者のような神職を始めとする宗教者や教育者や医者等は要注意です。又、職掌によっても、頭の上げ下げの多い少ないがあります。
下げる習慣が少ない職業・職掌の方がその習慣でつい慢に陥り易いものです。しかし、例えば営業等頭を下げる職掌も、普段の反動で他の場面では慢に陥る場合もあります。
神官にもお祭りやお祓いを「してやった」「させられた」という嫌な言葉を聞くことがあります。御教祖は『(他に)誇ればその口の元に功績が消える』とたしなめられています。
慢の祓い方・幸魂と誠実と祓
本教には冒頭4.の内に“誠実”があります。人の心を一生を通じて成長させるのは幸魂の働きで、それを助けるのが誠を尽す心です。又、慢を摘むべく2.の祓を心掛けましょう。