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2012−5
自然(おのずから)の道(みち) |
管長 巫部 祐彦 |
七罪(幸福への道程1.)の解説C 憤 |
幸福への道程は、1.七罪を犯さないよう心掛け、2.自分や先祖の犯した罪を祓い、3.長呼吸法で神気を戴き、4.八徳を積む、です。 (古神道・神理教を“本教”と記します) ・憤の貪 普段の生活の中で理不尽な誤解を受けて軽蔑され、或いは悪意によって侮辱され、人間関係や経済的な損失を蒙ることがあります。 又、その間違いを説明しても理解して貰えず、或いは無視・否定・言い負かされて、自身の尊厳や誇りを損じることがあります。 又、最初から口下手だからとか、神は見ているとか考え、言い訳をしない人もいます。 しかし誤解は解消されず居場所が狭まり、ついにはいたたまれなくなる場合もあります。 そんな時、私たちは言いようのない悲しみや苦しさを心の傷として受けてしまいます。 それと共に、理解してくれない人や悪意を持つ人だけでなく、それを解決出来ない自分のふがいなさや社会にも憤を感じます。 そうした憤は自分の心の中で堂々巡りをし始め、暗く重い心が頭や胸を支配し、その部分を焼くように痛めつけます。これが憤の貪という悪循環で、七罪の内の二つが一緒にやって来るのみか、憂や怨という他の罪まで呼び込んでしまいます。風邪は万病の元と言いますが、憤も言わば万罪の元なのです。心即ち霊魂が痛めば、それは身体にも影響し、免疫力が落ち色んな病気に取り憑かれやすくなります。そこで運勢も落ち込んで幸福は遠のき、病気災難が来ても防げません。 これは決して良い憤とは言えません。文末に対処を記しましたが、先ず心に神の明かりを入れる祈り≠ゥら始めましょう。 ・義憤 そうした理不尽な扱いを受けている人や、社会悪や国内・世界の政治や人心の乱れを見て憤を感じることがあります。 しかしここで勘違いをしないように気を付けなければなりません。親しい人の話に嵌って、他方を悪いと決めつけると、良くしてあげた積もりが、片手落ちの結末を招きます。 そうなれば又、自他に無用の憤を創り出してしまうことになるのです。 得てして自分の事を客観的に見ることは難しいのですが、他人のことも当事者でないのでつい早合点してしまいがちです。事件や諍いというのは交通事故と同じで、一方が100%悪いということは少ないものです。 折角中に入るのであれば、両方の話しをよく聞いて公平に処理をしないと、親切心が返って物事を混乱させることになります。 世の中の事、他人様のことを良く聞いて義憤するのは、悪いことではありません。 ただ憤を貪って怒りに心を焼くのではなく、出来れば冷静に是を正す為に考え、行動を取ることです。 ・義憤への対処 世の中のことであれば、一人で出来ないことの方が多いでしょう。そこで、まず自分の言動を正し、同じ心を持つ人と意見を交わして、世論を動かせなくとも自身と周囲の意見を確かにしておくことは大切です。 不思議なことに、まず自分とその周囲だけでも正論を持つ人がいれば、過激な活動に走らずとも、世は正しく動くものです。正論は必ず同時に多発し、進む方向もそこに自身が加担する役割も、自然決まってくるのです。 限られた範囲の団体や少人数の間のことであれば、自身や周囲の同じ意見や修復の気持ちを持つ人と一緒に行動が可能です。 一方を慰めるなり、紛糾せずに両方を和解させるためにはどうすれば良いか、よく考え相談してから実行することです。 怒り 最初に戻り、憤を自分の立場から考えてみます。御教誡の七番目に、 【人は怒るとも、己は怒ることなかれ。】があります。御教祖は他教のように、怒り・憤の感情を全て否定しているのではありません。 怒り・憤も悲しみや苦しみと同じく、貪にならない限り神から与えられた生きる為に必要な感情と捉えます。即ち、 『自分の事で怒ってはいけないが、理不尽な扱いを受けている人や、社会悪や国内・世界の政治や人心の乱れにはむしろ怒るべきだ。』と教えているのです。更に、『そうしたことに怒りも感ぜられずにいる人は、自分の友人でも弟子でもない。』とまで言われています。 ・憤(怒り)の祓い方・和魂と愛他 本教には冒頭4.の内の一つ“愛他”があります。自分の大切な人を守り愛する心は和魂の働きを増進させます。そこで憤の貪を避け、メリハリのある怒りを行使出来るのです。 |