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                                                          2012−3

平成24年3月号 第1177号

        

                 自然(おのずから)の道(みち)

管長 巫部 祐彦

七罪のA詐(嘘)
 幸福への道程は、1.七罪を犯さないよう心掛け、2.自分や先祖の犯した罪を祓い、3.長呼吸法で神気を戴き、4.八徳を積む、です。

2月から七罪の解説をさせて頂いています。
 (古神道・神理教を“本教”と記します)

 

七罪の(とら)え方

 本教の七罪とは冒頭1.の事で、(おこたり)(いつわり)((うそ))(むさぼり)(いきどうり)(たかぶり)(おごり)(うれい)(うらみ)です。

 タイ・サ・ドン・プン・マン・ユウ・エンと覚え、心の準備をして、もしこれらに一旦染まっても(とら)われないようにすることです。

 先月に続き、先ず囚われないように心掛けることと、もし囚われても本教に伝わる教えによって祓う方法をお話しします。

 七罪は例えば仏教の(ぼん)(のう)のように百八とか六万四千とかを、除夜の鐘などで消滅させてしまおう、というものとは違います。

 

 例えば死に伴う悲しさ((うれい))や悔しさ((いきどうり)(うらみ))等も、神から与えられた大切な感情で、()み嫌うものではないのです。

 しかし、それらの感情に(とら)われて生きる意欲を失ってしまうのは忌むべきことで、それを(つみ)というのです。

 (つみ)(ほん)(げん)(その言葉が持つ本来の意味)(つつ)み・(かく)で、意欲を失った自分の心根が恥ずかしくて、他人に隠す様子を指して言うのです。

 又、(けが)の本言は()()れるで、人の心即ち霊魂が罪に(おお)われて、神や祖先からの気が届かないことを言うのです。

 (ちな)みに(けが)が心のことを言うのに対して、(きたな)は物質的な(よご)れや悪臭から、やはり神祖からの()()れる様子を連想させる言葉です。

 (つみ)はキリスト教の“原罪”や仏教の“(ごう)”とは本質が違います。

“原罪”は人類の祖先であるアダムとイブが神との契約を破ったことから出来、“(ごう)”は個人が持って生まれたものと考えるようです。

 従って本人の力ではどうしようもなく、キリストに代わりに背負って貰い、(ろく)(どう)(りん)()(てん)(せい)して()(だつ)(はか)るという信仰です。

 これは例えば修行を積んだ人に頼り、次も人に生まれ変わるように念じて貰う為に金品を含んだ契約をするようなものです。

 

 しかし神道の(つみ)は、信じる以外にその元も理由も定かでない存在から、初めから与えられているものとは考えません。

 又、神に願うところはありながらも、全て神仏や教祖に任せる他力本願でもありません。

 (つみ)は本人やその祖先が確信して犯したか、(ゆくり)(なく)(気付かぬうちに)犯したかがあるものの、必ず原因があります。

 そしてそれを取り除くには神祖に祈るという他力の部分はありながらも、同時に冒頭の2.4.のように、自力の部分もあるのです。

“原罪”や “(ごう)”のように教団と(つな)がっている間だけ仮に許して貰っているのではなく、大元の神に願って祓うことが出来るのです。

 つまり、その信仰しないと“原罪”や“(ごう)”に苦しむのではなく、一旦罪を祓い除いた後に自主的((おど)されず)に行うものなのです。

 七罪は(けが)(()()れる)の要因であり、染まりやすいものですから、用心の為に挙げられたものです。余談ですが、ローマカトリック6世紀後半の法王グレオリウスは、七つの大罪として次のように挙げています。

 (ごう)(まん)(しっ)()(ふん)()(たい)(まん)(ごう)(よく)(ぼう)(しょく)()(ひん)(こう)((しき)(よく))ですが、これを整理すると大まか本教の七罪になるのは興味深いところです。これをどう解消するかが本教と他教との違いです。

 

(いつわり)((うそ))の心

(いつわり)((うそ))の一人歩き

 ()()のように最初から悪意を持つ者以外、始めから嘘をつこうという人はいません。

 苦し紛れや相手の為等、色んな場面が考えられますが、(おおむ)ね嘘は罪で穢れとなります。

 それが分かっていて行う本教人がいるとすれば、それは()(きょう)(かい)の9番目の“教えの(とが)(びと)”となります。本教人であることで、返って大きな(きため)を受けることになります。(きため)の本言は()らされるで、病気や怪我や災難によってその罪を知らされながら一種の祓いを受けるのですが、自慢出来るものではありません。

 一つの嘘は多くが次の嘘を呼ぶものですし、それは自分の良心の目をも覆い隠し、自分がついている嘘もその真偽が不明になります。

 そこで、嘘は一人歩きを始め、自分へも嘘をつき、一層酷い取り返しの付かないような(きため)を受けることになるのです。

(いつわり)((うそ))の祓い方・自白

 そこで本教には冒頭4.の内の一つ“自白”の教えがあります。神と(だま)した相手に()び、出来れば同時に祓いの祭を行うことです。本教には言霊(ことだま)の教えがあり、嘘等の悪い言葉でなく正直で善い言葉を使うべきです。そうすれば必ず元の自分を取り戻す事が出来ます。