七罪の捉え方
本教の七罪とは冒頭1.の事で、怠・詐(嘘)・貪・憤・慢(おごり)・憂・怨です。
タイ・サ・ドン・プン・マン・ユウ・エンと覚え、心の準備をして、もしこれらに一旦染まっても囚われないようにすることです。
先月に続き、先ず囚われないように心掛けることと、もし囚われても本教に伝わる教えによって祓う方法をお話しします。
七罪は例えば仏教の煩悩のように百八とか六万四千とかを、除夜の鐘などで消滅させてしまおう、というものとは違います。
例えば死に伴う悲しさ(憂)や悔しさ(憤・怨)等も、神から与えられた大切な感情で、忌み嫌うものではないのです。
しかし、それらの感情に囚われて生きる意欲を失ってしまうのは忌むべきことで、それを罪というのです。
罪の本言(その言葉が持つ本来の意味)は包み・隠すで、意欲を失った自分の心根が恥ずかしくて、他人に隠す様子を指して言うのです。
又、穢れの本言は気・枯れるで、人の心即ち霊魂が罪に覆われて、神や祖先からの気が届かないことを言うのです。
因みに穢れが心のことを言うのに対して、汚いは物質的な汚れや悪臭から、やはり神祖からの気が枯れる様子を連想させる言葉です。
罪はキリスト教の“原罪”や仏教の“業”とは本質が違います。
“原罪”は人類の祖先であるアダムとイブが神との契約を破ったことから出来、“業”は個人が持って生まれたものと考えるようです。
従って本人の力ではどうしようもなく、キリストに代わりに背負って貰い、六道輪廻と転生して解脱を図るという信仰です。
これは例えば修行を積んだ人に頼り、次も人に生まれ変わるように念じて貰う為に金品を含んだ契約をするようなものです。
しかし神道の罪は、信じる以外にその元も理由も定かでない存在から、初めから与えられているものとは考えません。
又、神に願うところはありながらも、全て神仏や教祖に任せる他力本願でもありません。
罪は本人やその祖先が確信して犯したか、不意(気付かぬうちに)犯したかがあるものの、必ず原因があります。
そしてそれを取り除くには神祖に祈るという他力の部分はありながらも、同時に冒頭の2.〜4.のように、自力の部分もあるのです。
“原罪”や “業”のように教団と繋がっている間だけ仮に許して貰っているのではなく、大元の神に願って祓うことが出来るのです。
つまり、その信仰しないと“原罪”や“業”に苦しむのではなく、一旦罪を祓い除いた後に自主的(脅されず)に行うものなのです。
七罪は穢れ(気・枯れる)の要因であり、染まりやすいものですから、用心の為に挙げられたものです。余談ですが、ローマカトリック6世紀後半の法王グレオリウスは、七つの大罪として次のように挙げています。
傲慢・嫉妬・憤怒・怠慢・強欲・暴食・不品行(色欲)ですが、これを整理すると大まか本教の七罪になるのは興味深いところです。これをどう解消するかが本教と他教との違いです。
詐(嘘)の心
・詐(嘘)の一人歩き
詐欺のように最初から悪意を持つ者以外、始めから嘘をつこうという人はいません。
苦し紛れや相手の為等、色んな場面が考えられますが、概ね嘘は罪で穢れとなります。
それが分かっていて行う本教人がいるとすれば、それは御教誡の9番目の“教えの咎人”となります。本教人であることで、返って大きな懲を受けることになります。懲の本言は懲らされるで、病気や怪我や災難によってその罪を知らされながら一種の祓いを受けるのですが、自慢出来るものではありません。
一つの嘘は多くが次の嘘を呼ぶものですし、それは自分の良心の目をも覆い隠し、自分がついている嘘もその真偽が不明になります。
そこで、嘘は一人歩きを始め、自分へも嘘をつき、一層酷い取り返しの付かないような懲を受けることになるのです。
・詐(嘘)の祓い方・自白
そこで本教には冒頭4.の内の一つ“自白”の教えがあります。神と騙した相手に詫び、出来れば同時に祓いの祭を行うことです。本教には言霊の教えがあり、嘘等の悪い言葉でなく正直で善い言葉を使うべきです。そうすれば必ず元の自分を取り戻す事が出来ます。