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2012−12
自然(おのずから)の道(みち) |
管長 巫部 祐彦 |
信仰を受け継ぐ4.(体験を通じて) |
幸福への道程は、1.七罪を犯さない。2.自分や先祖の犯した罪を祓う。3.長呼吸法で神気を戴く。4.八徳を積む。心掛けです。 (古神道・神理教を“本教”と記します) 冒頭2.祓の前段として、9月信仰の本質・意義と目的・10月家業と信仰・11月宗教は 必要か?について考えました。今月はこれらと筆者の体験を踏まえ、表題に進みます。 帰ってやろうか! 6月号に加え我が家の話で申し訳ないのですが、筆者は昭和55年3月迄学生でした。 前54年に一般大学を卒業し、國學院大學の神道専攻科で神道一般の勉強を一年間行いました。ここでの興味深い体験もありましたが(この話は別の機会)、今月はその一年か半年程前(昭和53〜54年頃)のお話しです。 6月号でお話ししたように、父と筆者は一回ですが掴み合いの喧嘩をする位でしたから、決して良い関係とは言えないものでした。 しかし、いつもいがみ合っている≠ニいうのでもなく、筆者の友人が来る時など一緒に酌み交わすことを楽しんでいたようでした。 今から33〜34年前の大学夏休みの晩、偶々父と二人になり「ちょっと話が…」と言うと、阿吽の呼吸のように家の座敷に導かれました。 何故話そうと思ったのかも覚えていませんが、衝動的(神の啓示?)な思い付きでした。 当時就職は氷河期と言われ、卒業が精一杯で成績の悪い筆者は、そこそこの企業への就職も難しいと感じていました。 学生時代は家の仕事から逃げだそうとばかり考えていた割に情けない話ですが、家で仕事にありつけないか甘えたのです。 そこで思わず父に言った言葉が、 「帰ってやろうか!(小倉弁の恩着せ言葉・帰ってやってもいいよ)」だったのです。 そう言った直後、『しまった!何と馬鹿なことを口走ったものか』と後悔しました。 その言葉の失礼さに気付くと共に、又父と嫌な喧嘩になると思ったのです。案の定、みるみる父の顔色が変わり、私の後頭部や肩を叩き始めました。 今まで暴力は振るったことのない父でしたが、とうとう手が出たかと顔を見ると笑っています。喜んでいたのでした。 間無しに父がその場を離れた時、筆者は無礼な事を言ったのに喜ばれて、何とも言えない複雑な気持ちになっていたものです。 直ぐに又父が戻ってきたその手には、ダルマ≠ニ親しまれた当時の高級ウイスキー・サントリーオールドがありました。 「そうか、そうか」とか言いながら、小振りの茶碗位のグラスを持たせ、注いでくれます。 筆者も注ぎ返して乾杯をした迄は覚えていますが次の瞬間は朝で、座敷で眠っていたのでした。うろ覚えに、父はつまみも無しに筆者の倍位のペースで飲みながら、 「まだ飲め、もう飲まんか(小倉弁・飲まないか)?」と注がれた気がしますが記憶はそこまでです。多分、仕事の心得等も教えて下さったのでしょうが、勿論記憶には残りません。 目が覚めると座敷のテーブルには、ダルマ≠フ空瓶とグラスが二つあるばかりでした。 多分筆者は4分の1も飲まずに酔い潰れたので、残りは父が飲んだのでしょう。 これに前後して宮城・愛知・三重・岡山等の教会にお招き頂き(この話も別の機会)、天職の理解へと一層進んだのでした。 親になって 当時の筆者は狐に抓まれたような気分でしたが、今親になって、ようやく父の気持ちが少し分かるような気がします。 一つは、当時の本教の状態が大変だったと後で聞くにつけ、『帰ってやる』等の失礼且つお馬鹿な言葉にも、喜びを感じたのでしょう。 その時は筆者も父がそんなに大変と思っている事とも知らず、父も筆者がいい加減な決意であることも知らなかった筈です。 筆者は取りあえず働き先があったと喜び、父は家の仕事を守る者が出来た事を喜んでいたのです。お互いに良い意味?で勘違いをしながらも、安心し合っていたのでした。 しかし父の場合、ただ筆者の不心得への勘違いだけでなく、家と自分の仕事を子どもに認めて貰った事を喜んだのだと思います。 もっと言えば、筆者の不心得を知りつつも、先祖や御教祖や自分の生き方が、少なくとも子どもに否定されなかった喜びだと考えます。 信仰を受け継ぐ 表題とこの小見出しについてまとめるつもりが、能力不足でした。来年、もう一回だけこの題についての紙面を頂きたくお願いし、良い年を迎えられるよう、お祈りします。 |