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2010−8
命の教育・人は悪? (古神道・神理教を“ 高級食材 数年前、中学や高校で行われた『命の教育』、という手法がマスコミでも話題になったことがあります。 昔から日本人が行ってきた、農業や漁業・商業・工業の片手間に 筆者は幼少時(昭和30年代)に母の実家に行くと、祖母が鶏を絞めて大きな手羽先を食べさせてくれるのが楽しみでした。 絞めるところは見たことはありませんが、血抜きといって台所の土間の外でバケツを置いて逆さに 熱湯に そうしたものを見て 実際に当時は卵や鶏肉は高価で、いつも食卓に上がるものではありませんでした。 この約50年でも物価が数十倍も上がる中で、よく言われるのが卵とバナナの上昇率が最も低く価格もあまり変わらない≠ニいうことです。 それほど当時は高質な栄養源の卵は高価な食材であり、同じく鶏肉も牛や豚に次ぐかも知れないものの、高級な食べ物だったと記憶します。 本院の 産んで間もない卵を横に そうしながらも祖母も伯母も大切そうに扱っていたし、良い卵が産まれるようにと 思い出しついでに毎日通う小学校の隣には鶏の飼育場があり、同級生の女の子が手伝いをしていました。 学校から皆で見学に行って臭いがきつかった事や卵を 命の教育の是非 ほ乳類や鳥類の食材がその形を残したまま市場に並んでいるのを見て食べられなくなったという人もいるというのは、 しかし『命の教育』であっても実際に飼うと、親近感を覚えることから、昔は習慣であってもそれを『食べる』ということに抵抗を感じるのは理解出来ます。 テレビでは涙を流しながら絞めたり、手を出せずに そうした様子を見ると、他の命を戴くことに罪悪感さえ覚えがちになります。 そこで私達は他種の生き物を殺して食べるのが間違っているのかどうか、の本質をここで考えましょう。 又それは間違っていないにしても一旦親しみを覚えたら間違えとなるのか、そんなことはどっちでも良いのかをご一緒に考えましょう。 先日の朝、神理幼稚園の園庭の飼育小屋から教師が5つ程卵を取り出してお盆に入れていました。 誰が食べるのかな・どういう風に調理するのかな、と子ども達が食べる風景も想像して楽しんでいたところ、 「あら、この卵 「ええっ!、もう暖めても駄目?」となった訳です。 連絡の行き違いで、かなり育った卵を食べるわけにもいかず、それらの命を無駄にしたようでした。 間違えとはいえ人間の産婦人科でこんな事を行えば、社会を騒がす大事件になったことでしょう。 結果論ではあっても他の生き物の命を軽視してしまったことは、反省すべき事だと言えます。 世の中に無駄にして良い命等、一つもないのです。 人は悪? 『生きている私は悪人である・人は悪を抱えて生きている・人は誰もが悪人である。』があり、その理由に、 『人は他の生き物を殺して食べるから』があげられているようです。 この本はマイナス 『いかに生きるか、ではなく、生きて 『死なずに生きよ、人として本当の強さを持って―。』、『アンチ・エイジング(年を取らない方法)はあり得ない。だが、老いることは人間が熟成してゆく過程なのだ。[ 『人は悪を背負い、それでも生きて行かねばならない』等、一旦突き放すような言い方をしながらも、前向きに生きる心掛けを伝えようとしているようです。 [ しかし本教では他種の命をいい加減に見なすことは悪ですが、他種の命を戴くことは悪とは見なしません。 他種の命を戴く人間を悪と見なすならば、この世のほとんどの種は悪となり、世界は悪の巣となってしまいます。私達の世界は神仏を信じる信じないに関わらず、遠く目に見えない何者かによって、悪意ではなく祝福を受けて成り立っていると考えたいものです。 懸命に生きるべきだと言うのならば、単純に他の種を食べることを悪と突き放すのではなく、そこに何の意味があるのかを考えるべきだと言えます。 性善説・性悪説 以前お話した記憶がありますが、一体人間の本性は 古神道神理教では善でも悪でもなく、人間の本性は神(の分霊)であると教えます。 それでは神は善か悪かと言うと、 この考え方を持つ本教はある意味 従って人は動物の中でも最上位と考えるのです。又神の御意志とは、『その子孫である人間が幸福に暮らせる神の世をこの世に形に表したい』ということです。 それは日本民族だけでなく、神の子孫である人類全体の幸福を目指すものです。 日本人等一つの民族が 御教祖はその中心・先駆けとなって働きを しかし 『人間と動物が平等でないのはおかしい』とか、『我が民族こそが一番優れていて他民族は 人と動物の違い 道具を使う知恵を持つ猿やわが子の死を 動物と人間の しかし、人しか先祖の守りの有無を考えることは出来ませんし、人しか天の意を認めるかどうか考えることは出来ません。 いわゆる目に見えないものは信じない・信仰を持たないと宣言する人がいくら増えても、それを考える事は人以外の動物には不可能なのです。 まあ、そのような宣言者は自ら動物の世界に、無理矢理にでも 御教祖は、人は神の子孫で一次的な存在であるのに対し、動植物は神の産んだ自然から発生した二次的な存在だと説いています。 これもある意味では 近年ペットの遺骨を家族の墓に入れる人もいるようですが、本教がそれは止めた方が良いと伝えるのはこうした 他の生き物の命を戴く・飼っていた鶏を絞めるというのは、《人類の文化とも言える習慣》ですから、そのような思いを以て飼い・そして絞めるというのは決して悪ではないのです。 |
季節のことば 処暑(しょしょ) 8月23日頃(今年も23日) 処暑は二十四節気の1つ、又はこの日(8月23日)から白露(9月8日頃)までの約17日間をいいます。 処の字には止まるという意味もあり、暑さが峠を越えて後退し始める頃ということになります。 二百十日・二百二十日(9月1日・11日頃)と共に台風襲来の特異日(台風や晴天等、ある天気が高い確率で現れる特定の日)とされています。 日本の七十二候では、処暑の始めを《綿はじける》とし、綿の種子が弾け白い綿が出る頃としています。 続いて、処暑の中に《天地始めて粛》で気温が下がり秋の涼しさが感じられ、終わりに《稲みのる(稲穂が見える文月に続き)》となります。 地球温暖化で暑い日も続くことでしょうが、暑さが納まり熟睡出来る日にはどうか体を愛おしまれて下さい。 |