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                                                          2010−8

平成22年8月号 第1158号

        


自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 命の教育・人は悪?

 

(古神道・神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

高級食材

 数年前、中学や高校で行われた『命の教育』、という手法がマスコミでも話題になったことがあります。

 (にわとり)を卵から(かえ)す所から見守り、(ひな)(どり)を育て親鳥になった(ところ)()めて料理して食べる、というものです。

 昔から日本人が行ってきた、農業や漁業・商業・工業の片手間に()(ちく)として(にわとり)()い、卵を食べ又(かえ)し鶏肉として食べるという習慣の再現ともいうものです。

 筆者は幼少時(昭和30年代)に母の実家に行くと、祖母が鶏を絞めて大きな手羽先を食べさせてくれるのが楽しみでした。

 絞めるところは見たことはありませんが、血抜きといって台所の土間の外でバケツを置いて逆さに(つる)された鶏を見ることがありました。

 熱湯に()けると羽が抜けやすいといって、絞めた鶏を大きな鍋に入れるところも見ました。

 そうしたものを見て()(わい)(そう)とか薄気味悪くも思いましたが、当時食の細かった筆者も普段味わえないおいしさの食欲には勝てないという感じでした。

 実際に当時は卵や鶏肉は高価で、いつも食卓に上がるものではありませんでした。

 この約50年でも物価が数十倍も上がる中で、よく言われるのが卵とバナナの上昇率が最も低く価格もあまり変わらない≠ニいうことです。

それほど当時は高質な栄養源の卵は高価な食材であり、同じく鶏肉も牛や豚に次ぐかも知れないものの、高級な食べ物だったと記憶します。

 本院の(いけ)(ばた)にあった祖母と伯母が住む家にも、(えん)の下に鶏を飼っていた時期がありました。

産んで間もない卵を横に()れないように(また)を広げて転がしキャッチボールをしたのを覚えています。

そうしながらも祖母も伯母も大切そうに扱っていたし、良い卵が産まれるようにと(えさ)に気を付けて飼っていた記憶があります。

思い出しついでに毎日通う小学校の隣には鶏の飼育場があり、同級生の女の子が手伝いをしていました。

学校から皆で見学に行って臭いがきつかった事や卵を(もら)った嬉しさを覚えていますが、それほど身近にありながら普段は口に入りにくかったように記憶します。

 

命の教育の是非

 ほ乳類や鳥類の食材がその形を残したまま市場に並んでいるのを見て食べられなくなったという人もいるというのは、(ほう)(しょく)の時代の特性でしょうか。

 しかし『命の教育』であっても実際に飼うと、親近感を覚えることから、昔は習慣であってもそれを『食べる』ということに抵抗を感じるのは理解出来ます。

 テレビでは涙を流しながら絞めたり、手を出せずに(ぼう)(ぜん)と見守ったり、嫌だと泣きわめいたりする子ども達の姿が(うつ)されます。

そうした様子を見ると、他の命を戴くことに罪悪感さえ覚えがちになります。

 そこで私達は他種の生き物を殺して食べるのが間違っているのかどうか、の本質をここで考えましょう。

又それは間違っていないにしても一旦親しみを覚えたら間違えとなるのか、そんなことはどっちでも良いのかをご一緒に考えましょう。

先日の朝、神理幼稚園の園庭の飼育小屋から教師が5つ程卵を取り出してお盆に入れていました。

誰が食べるのかな・どういう風に調理するのかな、と子ども達が食べる風景も想像して楽しんでいたところ、(しばら)くして卵が載ったお盆を見た別の教師が、

「あら、この卵(かえ)すつもりで(あたた)めさせていたのじゃあないの?」というので、事情を知らずに卵を取り上げた教師や聞いてなかった教職員が、

「ええっ!、もう暖めても駄目?」となった訳です。

 連絡の行き違いで、かなり育った卵を食べるわけにもいかず、それらの命を無駄にしたようでした。

 間違えとはいえ人間の産婦人科でこんな事を行えば、社会を騒がす大事件になったことでしょう。

 結果論ではあっても他の生き物の命を軽視してしまったことは、反省すべき事だと言えます。

 世の中に無駄にして良い命等、一つもないのです。

 

人は悪?

 (いつ)()(ひろ)(ゆき)の人間の(かく)()≠ノ、

『生きている私は悪人である・人は悪を抱えて生きている・人は誰もが悪人である。』があり、その理由に、

『人は他の生き物を殺して食べるから』があげられているようです。

 この本はマイナス()(こう)と評価する向きもありますが、

『いかに生きるか、ではなく、生きて()ること。そのことにこそ価値がある。その思いが、私たちの唯一にして()(めつ)(こう)(みょう)である。』、

『死なずに生きよ、人として本当の強さを持って―。』、『アンチ・エイジング(年を取らない方法)はあり得ない。だが、老いることは人間が熟成してゆく過程なのだ。[(げん)なる世界]で豊かに変わる関係性』、

『人は悪を背負い、それでも生きて行かねばならない』等、一旦突き放すような言い方をしながらも、前向きに生きる心掛けを伝えようとしているようです。

(げん)なる世界]も五木寛之自身が後期高齢者であり、《(げん)》も《(げん)(とう)(←(はく)(しゅう)(しゅ)()(せい)(しゅん))》という、人生の終盤を熟成と見なすというプラス()(こう)を感じます。

 しかし本教では他種の命をいい加減に見なすことは悪ですが、他種の命を戴くことは悪とは見なしません。

 他種の命を戴く人間を悪と見なすならば、この世のほとんどの種は悪となり、世界は悪の巣となってしまいます。私達の世界は神仏を信じる信じないに関わらず、遠く目に見えない何者かによって、悪意ではなく祝福を受けて成り立っていると考えたいものです。

 懸命に生きるべきだと言うのならば、単純に他の種を食べることを悪と突き放すのではなく、そこに何の意味があるのかを考えるべきだと言えます。

 

性善説・性悪説

 以前お話した記憶がありますが、一体人間の本性は(ぜん)なのでしょうか、それとも(あく)なのでしょうか。

 古神道神理教では善でも悪でもなく、人間の本性は神(の分霊)であると教えます。

 それでは神は善か悪かと言うと、(ぜん)(=ヨシ)は《(よご)れ・()り》で(あく)(=アシ)は《(あか)り・()り》ですから、その両方の(ことわり)の元でありながら善に近いことになります。

 この考え方を持つ本教はある意味(ごう)(まん)に受け取られるかも知れないものの、『他種の生き物の命を戴くのは神が人の為にこの世を造ったから』と受け伝えます。

従って人は動物の中でも最上位と考えるのです。又神の御意志とは、『その子孫である人間が幸福に暮らせる神の世をこの世に形に表したい』ということです。

それは日本民族だけでなく、神の子孫である人類全体の幸福を目指すものです。

日本人等一つの民族が(ゆう)()(せい)()()して、他民族を(しの)いで(くん)(りん)するという考え方とは根本が違います。

御教祖はその中心・先駆けとなって働きを()すのが日本人である、とお考えなのです。

しかし(じん)(りん)が乱れてくると、

『人間と動物が平等でないのはおかしい』とか、『我が民族こそが一番優れていて他民族は(おと)っているから、征服・(はい)(じょ)して当然』等と考え違いをしてしまうのです。

 

人と動物の違い

 道具を使う知恵を持つ猿やわが子の死を(なげ)き地に頭を打ちつける(つる)の話を例えにして、人間以外の動物も道具を使い感情を持つと言われることがあります。

 動物と人間の(ぶん)()(てん)はないと言う訳です。

 しかし、人しか先祖の守りの有無を考えることは出来ませんし、人しか天の意を認めるかどうか考えることは出来ません。

いわゆる目に見えないものは信じない・信仰を持たないと宣言する人がいくら増えても、それを考える事は人以外の動物には不可能なのです。

 まあ、そのような宣言者は自ら動物の世界に、無理矢理にでも(もぐ)()もうとするように見えるのですが…。

 御教祖は、人は神の子孫で一次的な存在であるのに対し、動植物は神の産んだ自然から発生した二次的な存在だと説いています。

 (すなわ)ち一次的な存在である人の為に、二次的な存在である動植物を発生させたのだということです。

 これもある意味では(ごう)(まん)に感じられるでしょうが、分かりやすい説明だと思います。御教祖が決められたのではなく、古来から本教に伝わった教えなのです。

 近年ペットの遺骨を家族の墓に入れる人もいるようですが、本教がそれは止めた方が良いと伝えるのはこうした(とこわり)があるからです。

 他の生き物の命を戴く・飼っていた鶏を絞めるというのは、《人類の文化とも言える習慣》ですから、そのような思いを以て飼い・そして絞めるというのは決して悪ではないのです。

季節のことば    処暑(しょしょ)   8月23日頃(今年も23日)

 処暑は二十四節気の1つ、又はこの日(8月23日)から白露(9月8日頃)までの約17日間をいいます。
処の字には止まるという意味もあり、暑さが峠を越えて後退し始める頃ということになります。
二百十日・二百二十日(9月1日・11日頃)と共に台風襲来の特異日(台風や晴天等、ある天気が高い確率で現れる特定の日)とされています。
 日本の七十二候では、処暑の始めを《綿はじける》とし、綿の種子が弾け白い綿が出る頃としています。
 続いて、処暑の中に《天地始めて粛》で気温が下がり秋の涼しさが感じられ、終わりに《稲みのる(稲穂が見える文月に続き)》となります。
 地球温暖化で暑い日も続くことでしょうが、暑さが納まり熟睡出来る日にはどうか体を愛おしまれて下さい。