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                                                          2010−7

平成22年7月号 第1157号

        

                        プロ(職業)とアマチュア(趣味)

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 プロ(職業)とアマチュア(趣味)

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

お客さん(重役出勤)

 読者の皆様の仲間内で、何々(地域名等)時間≠ニいうのはないでしょうか。

例えば本院では地域名から徳力時間≠ニ言うように各地域の習慣があり、ほとんどは決めた時間の数十分(数時間?)後に集まることが多いようです。

筆者は学生時代に寝過ごして待ち合わせの時間に下宿を出たことがあり、巫部時間≠ニ待ち合わせの度に友人達からからかわれ続けたことがあります。

御先祖様や両親に申し訳なかったと思います。

 それはそれで地域性を示すおおらかな感覚かもしれませんが、仕事と地域や仲間の付き合い方を混同すると大失敗となり信用を失うこともあります。

 外の仕事に向かう時、朝の待ち合わせの時間に遅れたり、ギリギリに来たりする人がいます、

 内の仕事も同じで、掃除をし仕事の順位を整え心を静めて始業を迎える人もいますし、皆が準備をし終えた頃駆け足或いはゆったりと現れる人もいます。

 そんな時、『重役出勤だ』とか『いつまで経ってもお客さんだ』等と、陰に(ひな)()に言われます。

しかし重役出勤≠ニは今は昔の話で、昨今の一般社会を見ると重役・社長さんほど時間を守るどころか、一層早く来て準備をする人が多いように感じられます。

 筆者の知る社長さんは常に朝1番に出社し、『トイレの掃除は自分の役割』と決めているそうです。

 (こと)に近年朝の時間は大切であり、その大切さを認識している人が責任ある役職に就き、認識している組織が発展するということになっています。

 逆にここが分からない人は職場の上司・同僚・部下からも信頼されることが出来ませんし、分からない人が多い組織は発展することが出来ません。

従って、分からない人はその組織の邪魔者になる可能性もあるのです。

 十分な余裕を持っての出勤は仕事をする上での必要最低条件で、この土台を大切にしない人や組織は仕事の出発点にさえ立ってない、ということになるのです。

 (もち)(ろん)、現代社会は多様化していますから時間差出勤や営業時間の違いはありますが、社会活動をする以上共有の時間は付きものです。その共有時間に早くから来ている人が信頼されるというのは、いつも駆け込みや遅刻して来る人には理解出来ないのかも知れません。

早くに来てしかも全体や自分の為の準備に時間を無駄にしない人を、早くに来て一緒に働いたりそれを見守ったりする人は高く評価します。

しかし、駆け込みや遅刻をして来る人は、そうした人の働きを見る機会もありませんし、その人への信頼や()しては自身への不信にも気付くことが出来ません。

 たった特に最初の1020分で、仕事への心構えや準備だけでなく、信頼感までプラスとマイナスに切り替わってしまい(うん)(でい)の差≠ニなるのです。

 

社会奉仕・神前奉仕(ボランティア)について

私達日本人はボランティアというと、空いた((ひま)な)時間や何かのついでに肉体的或いは精神的な手伝いをすれば良いのだと考えがちです。

これに比べ欧米のボランティアの考え方は、空いた時間等ではなく自分で時間を定期的に作って奉仕をするというものだそうです。例えば1回2時間で週の月・水・金の決まった時間等ということですから、これはもう仕事と同じです。仕事であれ奉仕であれ(遊びでさえ)真剣に行う、という態度は大切です。

大祭前に清掃奉仕をして下さったり、大祭中にも祭官奉仕や参拝者への接待や祭事の準備等色んな部分に奉仕下さったりする教会や団体や個人がおられます。

 私達本院の職員はその様子を見て例えば、

『あの教会の細やかな働きや気の付き様はお客さんではないね』とか、願えば出来ることを見越して例えば、

『あの方の動きはお客さんではないから、この仕事を安心してお任せ出来る』等話すことがあります。

 本教では、人としての至上の喜びは世や人に役立つ事役立って喜んで頂く事≠ニされます。

従って職場等で役立つ≠ニ思われる事は自分の喜びであると同時に、御神徳を戴くことでもあります。

 仕事の面でも奉仕の面でも、あの人に頼めばきっちりとやってくれるから安心だと言われたり思われたりされたいものです。仕事を任せて(もら)えないのは寂しい事ですし、部分的にでもお客さん%凾ニ言われてはいけません。終業時間が気になってお客様を早く帰らせることばかりに気が行ったり、それを見て見ぬ振りをする人の姿を見ると(いきどお)りと伴に悲しくなります。

 又、遅刻や休みを二日酔いや、()してはそれを誘った人のせいにするのは本末転倒です。

 仕事もボランティアもこの意味では差はなく、何事にも真剣に取り組む人を神祖も好まれるのです。

ただ仕事が基本ですから、これらは目標であり本来の仕事が入った場合にはそちらを優先すべきです。

生活を(おびや)かしてまで行う犠牲的な行為は、奉仕とは言えません。奉仕とは義務感で行うのではなく、心楽しく足の運びも軽やかになるべきものなのです。

 

して・させてやる≠ゥら、して・させて戴く≠ヨ

 本教も教団としての成立からは百三十年を越えましたが、年を経ることは良い部分とそうでない部分もあるのを感じます。

 お祭りを行い祈り願えば(かな)うことは多いものの、その恩恵に慣れてしまうと『お祭り(病気平癒や合格祈願等)をしてやった』という心ない言葉が出ることがあります。それは奉仕も同じで本院の職員がもし奉仕をさせてやる・勝手に奉仕をやっている%凾ニ思えば大変なことです。

奉仕をする側も不思議とそれに感応して奉仕をしてやった=ィしてやるのだからこれくらいでいいだろう≠ニなると、何の為に行うのか分かりません。

ややもすると『きつかった・つらかった』となり、『なんでこんな事までしてやらないといけないのだ』と言葉に出てしまいます。そうなると時間の無駄どころか、祓いと徳積みに来た本分は忘れ去られ、罪を作り徳を消しに来るようなこととなります。

 本院の職員にとって『奉仕をして戴く』ことは、自分達が行う例えば清掃の時間を別の有意義な仕事に回すことが出来ます。

 本教にとってもその仕事に人を雇えば掛かるお金を別の有意義な事業に回すことが出来ます。

又こうした奉仕のお陰で清々しく心地よい境内には参拝の人も集まるのは、重ねて有り難いことです。

そこで『して戴く』ことになり、それには心を込めて飲み物等を運び御礼の声掛けを行い一緒に体を動かすことが自然の行動になるのです。本院の職員にとって奉仕の皆様から『して戴く』のは神からして戴くのと同じ事に気付くべきですし、帰院される皆様は神に『させて戴いている』事に気付くべきと言えます。

 

御神徳拒否宣言席

本殿や教祖殿又教会の神殿で、満員でもないのに入り口やその並びや両端の隅や後ろに離れて座る人を見る度に(あわ)れさ残念さを感じます。

筆者はそうした場所を『御神徳拒否宣言席』と呼んでいます。以前もお話ししたことがありますが、

『自分は孫が沢山いるが、自分の事を怖いとか臭いと言って近づかない孫も可愛い。でもお祖父ちゃんお祖父ちゃんと言って寄って来る孫はもっと可愛い。

だから少し多めにお小遣いを上げてしまう。』とお話しされる年配の方がいてなるほどと思いました。

この方が孫を見る目と神が私達を見る目は、神は人の大元の親・人は神の子孫ですから変わる物ではありません。折角神前に足を運んでも近寄らないのは、

『私は実は神様・信仰が嫌いなのです』と宣言に来たのと同じですし、後から来た方の遠慮も誘い、返って不徳となるのです。そうではなく、他の人と争うように親の愛情を奪い合おうとする兄弟姉妹のように、自然に競って前へ進む姿を神は喜ばれるのです。

 

仕事も奉仕もプロ(職業)の心持ちで

 これくらいでいい(十分)といういい加減オーラ(雰囲気)は、不思議と周囲の人に(さっ)せられるものです。

 いつもお伝えする事ながら、働く≠フ(ほん)(げん)(その言葉が本来持つ意味)は(はた)(らく)≠ナ、(そば)の人即ち周囲の人引いては社会を楽にすることです。

 自分では意識しなくてもそういう(こと)(わり)がある…、ならば自分から世の為人の為になるように積極的に良い仕事をしようというのがプロ(職業)の心持ちです。

 誠実(八徳の一つ)な仕事が直ぐに収入に繋がらないことは多いものの、それは陰徳(八徳の一つ)を積むことであり同時に奉仕でもあるのです。

 仕事と奉仕とを分けながらも誠意においては混然となって(つと)(いそ)しみ、『あなたがいて良かった』と思われることが、自分・家族・社会の開運に繋がるのです。

  季節のことば    文月(ふみづき・ふづき)


 月の和名シリーズ、7月が残っていたのに気付きました。
 一般に文で消息を知らせる文扱い月が転じたと言われます。又、書物を夜風に曝す習慣とか、奥義抄(平安末)には詩歌や字を書き書道の上達を祈った七夕の行事に因み文広げ月・文披月が転じたとの説もあります。
和爾雅(江戸初期)には墓に参詣する親月、類聚名物考(江戸中期)には稲穂が膨らむ穂含月・含月、とあります。
又、稲穂の膨らみを見る穂見月の説も伝わっています。
異名も『蘭月・涼月(以上漢名)七夕月・女郎花月・秋初月・七夜月・建申月・親月・桐月・初秋・七月・文月・愛逢月・相月・多草月』等あり、それぞれ味わいがあります。
 ここでは詳述しませんが、本教は穂見月(稲穂が見える月→御先祖の霊魂と会う月)を採ります。
 8月上旬には神式での先祖祭、穂見祭をお勧めします。