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                                                          2010−5

平成22年5月号 第1155号

        

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 人に二つの過去あり 2

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

神道の原点

 先月号は父四代管長の教話の紹介でしたが、途中になったので続きをお話しさせて頂きます。

『人には二つの過去があります。

一つは自分が生まれてから今日までの過去で、もう一つは自分が生まれる前の過去です。』の3行の解説に先月号を(つい)やしました。

 それだけ内容が()いのだと思いますし、現代の問題や日本人の考え方の(こん)(かん)に触れる内容でもあります。

 神道をアミニズム(=霊的存在が肉体を支配すると信じる宗教)とかシャーマニズム(=霊と交信する呪術師の能力によって成立する宗教)として原始的だと(けい)(べつ)(けい)()する見方があります。

平成1911月号にも触れましたが、この見方は近年日本文化(言語・文字・習俗・宗教等)の再認識と共に修正されつつあると聞きます。

四季を(せん)(さい)に感じ取る等の美しい言語は決して中国の(もの)()()()(りゅう)ではなく、中国・イスラム・欧米文化等と並ぶ一つの独立した文化との見方です。

それは宗教も同じというより、未文明を意味する原始的(プリミティブ)ではなく、基本的(プライマル)な宗教であるという見方です。つまり神道は全ての宗教に共通する基本を踏まえた宗教でありその文化を支えてきたのが日本人である、という考え方です。

これは日本人が自信を持つことを()()しつつ日本人に伝わった素晴らしい古神道の教えを活用しようとされる、御教祖の教えにも(かな)ったことです。

便利さを物質的に積み上げる文明と、精神的に積み上げる文化は区別されるべきで、同時に(すぐ)れた文明を持つ民族の方が文化も優れているとは(かぎ)りません。日本に伝わる信仰の文化は、人類の英知でもあります。

 

()(きょう)からの神道()(はん)・軽視

 他教には、鳥居を(くぐ)ったり神前に進んだりすることを禁止する教派もあります。

 数年前本教を研究するように言われたと、仏教系大学の男性の学生さんが来たことがあります。

 境内の案内を願われてお連れしたのですが、徳力山に登るのに無数の鳥居を(くぐ)らないようにするので見るからに大変で危なかしいものでした。

 又正月参拝に日本の文化を知りたいと、親戚の友人でキリスト教系の外国の娘さんが来たことがあります。

 面会を願われて(しょう)殿(でん)(すす)めたのですが、神前まで進むことは禁じられているということでこちらが(こう)(はい)(大教殿入り口)まで降りたことがあります。

神道にも同様に禁ずる教派や教会もあるかもしれませんが、日本人の古来の習慣としてはありません。

 (もの)(のべ)()()()()(かく)(しつ)(古墳時代後期)はあったものの、それは仏教渡来後の主導権の争いであり、仏教自体を憎んだり批判したりするものとは違います。

 基本的(プライマル)な宗教である立場からか、神道自体が他教を批判することはありません。

 一般に神道には他教と違い教祖と教義がないと言われ、それを理由にしてか他教には、神道を未文明・原始的宗教として低い位置づけをする向きもあります。

又その批判しない部分を指して、批判の()(どころ)(教義)がないからだと結論付ける向きもあります。

筆者はそこまで神道軽視を理論付けする人こそ、神道の基本的(プライマル)な教えに対しての(せん)(ざい)(てき)(れっ)(とう)(かん)から(のが)れられないのではないかと思います。

 つまり神道の持つ潜在能力の大きさを感じるほどに、自らの信仰との整合性が保てず理屈抜きの感情的な批判の為の批判になっているのかもしれません。

 又は神道を全く理解出来ず、そうした批判を()()みにしているのかもしれません。

 

本教の他教批判?

・批判の理由二つ

 本教は他教を批判する時もありますが、理由のない(きょ)()(かん)(ぞう)()(かん)からのものではありません。

 本教は神道の一派でありながら、御教祖もおられますし神道の教義も確立してします。教義が確立しているが(ゆえ)に、一般の神道のように(あい)(まい)な部分が少なく、他教との違いが鮮明に浮かび上がるのです。

本教は神道の基本的(プライマル)な教えを、巫部家に伝わる(もの)(のべ)()の古神道を合わせて御教祖が大成されたものです。又この教えは基本的(プライマル)である(ゆえ)に、世界の人類共通のものだと信じます。

 御教祖が他教を批判するような教えを説かれるのは、次の二つの理由がある時だと拝察します。

 一つは、日本人が(たま)(たま)その時その時代に文明・軍事・経済力の優れている国の方が歴史も宗教も優れていると思い迷っているのを感じた時です。

日本人としての誇りと自信を失い、先ほどの神道批判などを真に受けてフラフラとついて行こうとする日本人を(しか)って目覚めさせ・勇気づけたい為なのです。

 二つは、人間にとってはっきりと重要なことを迷わせるような教えについてです。例えば性欲・食欲等を(ぼん)(のう)(もう)(ねん)として悪者扱いをし結婚を禁じたり、祖先信仰を否定する(りん)()()(そう)の教え等です。

・欲や感情は生きる力

 本教ではこれらには七罪の一つ『(むさぼ)』という(くん)(かい)があり、(いや)が上にも欲しがることを(いまし)めるものの、欲自体を罪とは見なしません。適度の欲は、生きる意欲に繋がる大切なものとして扱います。

 それは悲しみや怒りなども同じで、行き過ぎさえなければ、人間の情感全体のバランスを取るための一つとして決して邪魔なものではありません。

又例えば悪行をなす人を見て怒りを感じないというのは、正常とは言えません。

 御教祖は遺言≠フ第六十二條に、

(いっ)(ちょう)(いかり)(しゅう)(じつ)(むな)しくするは、(こころ)(あさ)ましきが(ゆえ)なり。

(ひと)(おこ)るべからず。(ゆえ)(わたくし)(ごと)(かん)しては(もっと)(つつし)むべし。されども(こっ)()(ため)(じん)(どう)(ため)()()()(せい)(ため)には(おこ)るべし。(おこ)ること(あた)はざる(もの)()(とも)(あら)ず。()()()(あら)ず。()(しん)()(あら)ず。

(朝怒りを発してそのまま一日中怒ったままというのは、心が情けない{修行が足りない}からである。

人は普段は怒るべきでない。特に自分自身の不利益等については怒ることを(つつし)むべきである。

しかし国家の為・人道の為{人としての善悪}・不義不正の為に間違ったことがあれば怒るべきである。

怒るべき時に怒ることが出来ない人は私の友ではないし、私の弟子でもなく、又私の信徒でもない。)】と厳しいことを言われています。

 このような批判は、他教が神道に行うような嫌悪感や憎悪からの否定の為の批判ではなく、人として守るべきものを守る為のものなのです。

 

筆者の神道批判失敗談

 以前お話ししたことがありますが、筆者は大学時代マルクス経済を少し(かじ)り『宗教は麻薬である』という言葉を真に受けて、神道批判を試みたことがあります。

 もう完成間近というところで、自分自身の心の中で《どんでん返し》を()らうということになりました。

 誰から指摘された訳でもなく自分の中で、

『それは違う、そこまでは批判に整合性があっても、神道の根幹を全く見損なっていた』という内なる声にひっくり返されて、全てが()(は(わ))(さん)になってしまったのです。何故そうなったのか狐につままれた≠謔、に思っていたのですが、この文を作っていて分かったことがあります。筆者も未文明・原始的と否定する内に、全てを(批判さえも)受容し・尚かつ神徳を与えてくれようとする(ばく)(だい)(ほう)(よう)(りょく)を感じたからなのです。

原始的(プリミティブ)と基本的(プライマル)を混同していたことと同時に、人を神の子孫と見なすことの大切さに気付いたのです。

その時神道思想の莫大な包容力に比べ、自分は反抗期の子どもだったと気付かされました。

 筆者は他教派との交流等で寺院や教会に行くことがあります。日宗連や世界宗教平和会議に参加する宗教者の大部分は、他人が大切に崇拝するものは同じ尊敬の念を持って共に祈りを捧げます。筆者も人が崇拝・尊敬の念を持つものに対して敬意を表します。しかし信仰は敬意とは別物という認識から頭を下げるのだし、それは他教の参加する宗教者も理解の上だと思います。

 

現世において神になる

 先月の宿題である自分の心を入れ替える方法≠簡単に記せば、輪廻転生ではなく現世において神になる気持ちに生まれ変わりたいものです。その為に、

『祖先が遺した過去の徳は戴き罪は祓う』つまり、自分が生まれる前の過去を正すことです。次に、

『自分が通った過去の徳は戴き罪は祓う』つまり、自分が生まれてから今日までの過去を正すのです。

 加えて、そうして作った過去の道を突き進む勢いを以て、新しい人生に勢いを付けたいものです。

季節のことば    端午の節句(たんごのせっく) 

   5月5日(水)

"端≠ニは初めの意味で、端午とは『月の初めの午の日』のことでした。
かつては他の月も『初めの午の日』を端午といっていたものを、いつからか特に5月をいう(2月は初午)ようになったようです。
従って端午の節句(日本では子供の日)は毎年変わる筈ですが、3月3日(重三・桃の節句)・7月7日(重七・七夕)・9月9日(重九・おくんち)に合わせたという説もあります。
奇数(陽)の重なりの方を吉として優先したものでしょう。
 中国や朝鮮でも季節の変わり目を祝う行事で、中国ではこの日に薬草を摘み・ヨモギの人形を作り・ショウブ酒を飲む習慣が日本に伝わり、魔除け(軒に指す)にもなりました。
 5月は大切な田植えの季節で、端午の節句は早乙女となる女性の心身を清める『五月斎』の行事でもありました。