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                                                          2010−4

平成22年4月号 第1154号

        

自然(おのずから)(みち) 五代管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 人に二つの過去あり 1

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

(ひゃく)(にち)(さい)

 早いもので三月一日に伯母(四代管長の姉)の百日祭を迎えました。

 妹たちの仕事の関係で前日の日曜に、瀬戸総務局長に祭主を勤めて頂き行いました。

 祭典後の祭主挨拶で、これもこの四月で五年祭を迎える父(四代管長)の教話を聞くことが出来ました。

 (なつ)かしく嬉しくも思いましたし、聞いたことのない(忘れたのかも?)内容でもありました。

 二十分ほどの祝詞と玉串拝礼の後でも、瀬戸局長の話は聞く人を引きつけて()きさせません。

今回伯母との思い出話の次に、父の教話の紹介をもって挨拶の中心とされました。

 感銘する所があったので(忘れないように)、皆様にも解説と伴にご紹介申し上げます。

 

二つの過去

・生まれてからと生まれる前

『人には二つの過去があります。

一つは自分が生まれてから今日までの過去であり、もう一つは自分が生まれる前の過去であります。』と 四代管長は始められたようです。

こうした分け方を提示されると、自分をもう一度別の角度から見直すような新鮮な気持ちになります。

生まれてから今日までの過去≠ノついての(とら)え方はどの宗教も余り違わないでしょうし、自分が体験した現実であり、覚えている部分も多くあります。

しかし生まれる前の過去≠ノついては大きく異なるようです。

・生まれる前の過去の(とら)え方

ここは三つに別けて考えられます。

一つ目は生まれ変わり(=(りん)()(てん)(しょう))≠ニ言って、何度も生まれ変わり、人や動物や虫等の生き物として過ごしていた過去≠ニいう考え方です。

二つ目は(りん)()(てん)(しょう)とは全く違う神道の(けん)()で、  ご先祖が過ごされていた(徳と罪穢れと祓いが作用し合ってきた)過去≠ニいう考え方です。

三つ目は無神論者の思想で、生まれる前も後も何にもなくて今だけ≠ニいう考え方です。

・生まれ変わり(=(りん)()(てん)(しょう))論について

生まれ変わりという考え方が、自然界の在り方に似ているというのは分かります。(すなわ)ち生き物が死ねば()(はい)して(よう)(ぶん)になり、その養分を消化するバクテリア(=(さい)(きん))がいて、それを養分とする植物等、(しょく)(もつ)(れん)()(れん)(そう)しているのでしょう。(いのち)(じゅん)(かん)していると言うのも自然界の(せつ)()で、(いのち)(じゅん)(かん)しているように、(れい)(こん)もそれぞれに宿(やど)って循環していると言えます。

これが(りん)()(てん)(しょう)の発想となったのかも知れません。

しかし神道ではそれらは総体としての(しん)(れい)((ある)いは(ぶっ)(しょう))の一部と捉え、これに両親とそれぞれの先祖から受け継いだ個性を加えた人霊とは違うと考えます。

又生まれ変わりの考え方が、例えば(はく)(あい)(せい)(しん)(など)の思想や宗教の(きょう)()(じっ)(せん)(すい)(しん)(など)が次の世代に伝わるのと似ているというのも分かります。

しかしこれも思想や教義が受け継がれるのであって、個人の霊魂が受け継がれるのではありません。

 又ラマ教等のように教主の霊魂が次代の教主へ転生すると信じるのは、本教の大元の大神霊からの()()について、(とら)え方の(そう)()だけのように感じます。神霊(ここでは仏性)(そう)(でん)していると考えるのでしょう。

 しかし神道では、大元の神霊は量の差こそあれ全ての人に相伝していると考えます。

 前代までの教主の記憶や個性も(ゆう)すのを証拠とする考え方もあるようです。他教の事は深追い出来ないものの、それは転生とは別の原因のようにも思えます。

(これ)()は自然や世の移り変わりと人の霊魂の在り方を、同じ自然の(せつ)()として(こん)(どう)していると考えられます。

(そう)(たい)(てき)に自然や世の移り変わりは一つの環境であり、人の霊魂はその環境の中で時代を越えて存在を続けるものですから、混同するのは乱暴です。

・神道の(けん)()(人は神の(ぶん)(れい){わけみたま})

神道では自分が生まれて来る前は人や犬や猫や虫等だったとか、自分の死後もまたそうした生き物に同じ魂(意志)を持って生まれ変わりをする等と考えません。

各自の個性を持つ霊魂が母のお腹に宿る前の百年・千年も前にも存在し、又その後に生まれ変わって出てくるとは考えないのです。

自分が生まれて来る前は大元の(だい)(しん)(れい)(=神・宇宙の意志)の一部であり、生まれる時はその大神霊の一部が祖先を通して両親から体に付いて生まれ出るのです。

神の(わけ)(みたま)(ろう)(そく)の火を移すように先祖から両親を通る時に、その資質を受け継いで個性を持つ精神と肉体が生まれ出るのです。

現代科学で全てが明らかになったという、人のDNA(=遺伝子)が受け継がれる()(くつ)とも()(じゅん)しません。

 ご先祖が(のこ)された過去は自分自身の過去(=記憶・体験)ではないものの、それとは別に父と母のDNA(=遺伝子)に伝えられた資質です。

 それに環境や体験・考察・判断等が加わったものが自分自身の過去であり、そこに個性が現れてくるのです。

・人と他の動物との違い

 (れい)(こん)()()()()さにかこつけて、例えば虫にも人と同質の霊魂が宿(やど)ると(とら)えるのは自然とは思えません。

 人という(とうと)(うつわ)があるからこそ、個性に満ち同時に両親と先祖に似た精神(=霊魂)が肉体に宿(やど)るのです。

 人(ヒト)(ほん)(げん)(=その言葉の持つ本来の意味)は、ヒ・タリ・トドマリ(=日・足り・止まり=神の(){=霊魂}が充分に満ち足りて止まったもの)との教えがあります。

 人と虫では霊魂を受け入れる量も質も違います。

余談ながら、神道で伝える人≠ニその他の生き物≠フ決定的な違いというのも、この観点から考えることも出来ます。御教祖は更にもう一歩踏み込んで、

『人は神から直接霊魂を戴いて生まれ、他の生き物(=動植物)は神から生まれた自然から間接的に生まれた。』というふうに教えておられます。

大元は同じながら、直接(=一次的)と間接(=二次的)の違いと(とら)えているのです。

自然は神が人の為に用意下さったと考えますし、それはこの世を神の世に成す為の(えん)(だい)()(しん)(りょ)なのです。

()(まえ)()()(とら)えられがちながら、私達は他の動物と同じように誰はばかることなく、例えば(しょく)(もつ)(れん)()(ちょう)(てん)として他の動物の命を戴くことが出来るのです。

だからこそ()()(づか)いはいけないもののこうして他の命を戴き、又自然と共生しながら自然物を社会や子孫の繁栄と幸福の為に役立てることが出来ます。

 

・日本文化の継承

現実に目を移すと、食文化の違いか他国に()(げい)やイルカ漁の(きん)()を実力行使で訴える団体があります。

(せい)(たい)(けい)(こわ)すものは()()ですが、一つの動物を()(わい)(そう)≠セけで見てしまうと、その余波は自分たちにも及ぶことになります。

(くじら)やイルカは禁止だが(うし)(にわとり)は良い等≠サうした団体なりのルールがあるのでしょうが、そのルールを他の民族の文化に押しつけるべきではありません。

同じ動物でも大きさや知能や飼育の有無で比べようとすると、返って矛盾し公平感を欠くことになります。

日本人は食文化だけでなく、日本に伝わった自然観を文化として受け継いでないと、こうした動きに()()(らい)(どう)し本質(=人間の根)を見失うことになります。

そして日本に伝わった文化には欧米の人造教にまだ壊されていない、天造教である神道の教え(=信仰の文化)が息づいていることを確認したいものです。

 信仰がないと自慢するよりましかもしれませんが、人は神が土から造ったもので他の生物も同列と考える文化とは本質的に違うものなのです。

・本教の生まれ変わりとは

生まれ変わりを考えるのは私達の想像力を刺激し楽しいのですが、古神道神理教では受け入れられません。

それは、人は神の(ぶん)(れい)(わけみたま)を戴いて個性ある霊魂として生まれ、死後も永続して自分の子孫を見守るという役割と楽しみを与えられていると信じるからです。従って他の人間や生き物に生まれ変っては、自分の子孫を守ることが出来ません。

 本教では人は神の(ぶん)(れい)(わけみたま)であり子孫と考え、霊魂は先祖・親を通じて(こと)(あまつ)(かみ)()(はしら)から戴きます。

 又体は(てん)(ざい)(しょ)(じん)()(はしら)がそれぞれの役割を果たしながら、(もっ)()()(ごん)(すい)の働きを加えてお造りになりました。

 欧米と似ているようで、その意味の深さに於いて(うん)(でい)の差があります。御教祖の教語≠フ第九十九節に、『人間の霊魂は、再び人間に生まれ変わるのではない。

人間が生まれ変わるというのは、心を入れかえるのじゃ。人間の魂は、神から出て神になるのじゃにより、現世において神になる修行が一番大切である。

又、子孫のものは、その神さまになられるように、()(まつり)(おこた)らぬ様に行うのが(かん)(よう)である。』とあります。

 自分の心を入れ替えるのは想像以上に難しいものですが、来月号で四代管長様が説く教えをお伝えします。

季節のことば    清明(せいめい)  

 今年は4月5日(月)
 一年にわずか一日か二日・春秋の寝起きや夕刻の一瞬、その気候の心地よさに思わず「生きてて良かった」と感じることがあります。
 清明は春分の日の翌日から十五日目(旧暦三月の辰の正節)で、新暦の四月初旬の頃です。「生きてて良かった」と生の喜びを噛み締めるられる春の部が、この辺りで訪れることでしょう。
清明は二十四節気の一つで、この頃春気玲瓏として草木の花が咲き始め、万物に晴朗の気が溢れてくるという意味です。
清明という言葉には心身を洗ってくれる季節の息吹を連想します。『清浄明潔』を略したものだとも、巽(=辰巳・東南)から吹いてくる春風を清明風というのにちなむのだともいいます。
 この季節から戴いた生きる喜びをバネとして、一層信仰に励んで命の火を燃やし、一年中が「生きてて良かった」と喜びと感謝に満ちた毎日が送れるようになりましょう。
 大祭へのお帰りをお待ちします。