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                                                          2010−3

平成22年3月号 第1153号

        


H.22. 3月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 人に好かれる((きら)われない)方法

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

人に好かれる((きら)われない)方法があるか

 こんな(だい)(もう)けると、筆者がとても人に好かれていて、それを自慢しているように思われる向きもあるでしょうが、決してそうではありません。

 全ての人から好かれる人は(まれ)でしょうし、人生には(あつ)(れき)(()())が付きものですから、一生懸命に生きようとすればするほど嫌われる機会も増えてきます。

 (てき)の多い人は実はしっかりと仕事が出来る人に多いと言われ、反対に敵が少ない人は実は八方美人でいい加減な人に多いと言われることがあります。

嫌われることを避けてばかりいると、言うべきことも言えず・頼りがいのない・役に立たない・いてもいなくてもよい人に近づいてしまいます。

 それでは、自分の周囲から世の中を善くして行くという神の御意志に(こた)えられません。

 世の為人の為に言うべきことは言わねばなりませんが、それでも人に嫌われるよりは好かれる方が良いに決まっています。

 その方法をご一緒に考えてみたいものです。

 

人を好きになる(嫌わない)

 筆者が考えた方法は、単純ながら人を好きになる・或いは嫌わない、というものです。

 『自分に好意を持って下さっているな』とか『信頼頂いているな』というのは、その人と話したり(きょ)(どう)を見たりするうちに何となく分かるものです。

 そうするとこちらも『好意を持つ』し『信頼してもよいかもしれない』となるものです。反対に、

『自分の事が嫌いだな』とか『信頼してもらってないな』というのも、何となく分かるものです。

 そうするとこちらも『好きにはなれない』し『信頼することも出来ない』と自然になるものです。

 それはこちらが好き嫌いの感情を持って『相手には気付かれないだろう』と思っていても、ちゃんと気付かれているのと同じです。

人を好きになる(嫌わない)は、簡単なようで難しいものです。

 なるべく嫌わないようにしようとは思っても、『相性の悪そうな・肌の合わない人を好きになるなどとんでもない』と最初からあきらめてしまうものです。

 そこに教えの活用があるのです。

 

受け止め方(教えの活用)

・苦言・悪口(スピーカー)の内面・背後の神を見る

 好意或いは不安と共に()(げん)(てい)す人がいますし、悪意を持って攻撃的な悪口を(かげ)()(なた)に言う人がいます。

 好意の苦言は有り難いものの、やりとりする内に(こう)(ふん)して悪意に近づくこともあります。

好意悪意は別にして、苦言や悪口を繰り返し耳にしなければならない時は苦痛を感じるものです。

 その時筆者は悪意の有り無しとは無関係に、その人の内面或いは背後を見る(意識する)ことにしています。

 例えその場で意識することを思いつかなくても、後で嫌な・反省すべき思い出として心に現れもう一度思い返す時にそうするのです。

 目と心の視線を内面・背後の神と祖先に合わせ、その人の口を使って教えて下さっていると考えるのです。

 悪口・苦言を言って下さる人は神祖のスピーカーだと考えるのです。

 先月も触れましたが人は神の(ぶん)(れい)(だから幸せであるべき)というのは、御教祖というより古来の神道人の強烈な信仰・信念であり、(さと)るべき第一段階です。

 その人が言っていることは、大なり小なり例え悪意であっても神祖がその人の口を使って伝えようとしているお知らせなのです。

・スピーカーにも故障有り

 余りに嫌な思いをしたり繰り返しが多かったりした時は、そのスピーカーである口や心に故障している部分があるのだと考えましょう。

 人は神の分霊と言っても神に比べると大変小さな存在ですから、(つみ)(けが)れに()まりやすいものです。

(つみ)(けが)れに()まると苦言も悪意に繋がることさえあるものです。

 そう考えると、例え相手に悪意をぶつけられてもその人を憎むことは無くなり、

『その人の内面・背後の神祖は何を伝えて下さろうとしているのか』と冷静に考えることが出来るのです。

(こわ)れたスピーカーであっても

又、その人が言っていること自体が間違えとしか思えない((こわ)れたスピーカー)、ということもあります。

人が(とら)える真偽・真相に絶対は無いものの、大多数の人が聞いても間違えと判断されたことを言われたり強制されたりすると、()()(じん)に思い不満を持つものです。

しかしそこにも(しん)()()(こころ)(うかが)い知り、反省の心を持つ余裕があれば安心です。

自分の行いや計画の大筋が間違ってないとしても、小さくとも大切な不備や時期についての教えかと振り返ることになります。

教会長や人生を重ねられた人の話も大切ですが、もっと広い範囲からの視点を変えたお知らせを受けることが出来るのです。

 こうして視線や意識を、苦言・悪口を言う人からその内面・背後の神祖の御意志に合わせることにより、その人本人を憎み・嫌うことから(まぬが)れるのです。

 そして相手を憎み・嫌う感情が薄まり消えると相手の心も収まり、憎しみの再生産という無益な感情からお互いが解放されることが出来ます。

 

発し方(教えの活用・相手は神)

 先ほどは苦言・悪口を言われる立場からお話ししましたが、苦言・忠告を言う時はその反対です。

 まず(こう)(ふん)し過ぎて悪意・悪口となることに気を付け、常に相手の為を思いやる・相手を好ましいという心を忘れてはいけません。

そうでないと折角の苦言・忠告も受け容れられずに無駄となり、憎悪や拒絶観念が残ることになります。

ここでも教えの活用ができます。

御教語の第三節に、

神に対して信仰なき人は、人に対しても信用せられぬ』とありますが、人と人との関係にも同じ事が言えます。

 人の信用を得る(好かれる・嫌われない)為には、まず信仰(神と相手の祖先を敬う)心を持つことが大切です。

 信仰といっても現代人が食わず嫌いに恐れる、得体の知れないものではありません。

 信仰は目に見えない神や、行ったこともない死後の世界を信じることではありません。

 もっと身近に、今生きていることを感謝し・自分のあり方を反省し・自分を支えてくれるものにお返し(奉仕)しようとすることです。

 いわゆる信仰の三原則(人として生きる基本)です。

 感謝をする対象の神や自然や社会や祖先や先人、そして祖先の居場所や自分の行き先について考えるのはその次の段階です。

 その段階が今どこであろうと、そうした信仰心を持っていれば、不思議と相手からも信用される(好かれる・嫌われない)ものです。

 加えて人は神の分霊という確固とした信仰があれば、相手の表面に罪穢れ(悪意)が出ても、内側の(しん)(せい)()()えて話すことが出来ます。

 外面の悪意はさておき、こちらが内面(神の分霊)を信頼すれば、その心は必ず相手に通じるものです。

 相手にも運良くそうした信仰があれば一層通じやすいし、無くとも(ひど)く嫌われることはありません。

 

恋愛・普段の付き合い

 余談ながらこちらが幾ら好きになっても相手には好きになってもらえない場合(恋愛)もありますが、せめて嫌われないくらいにはなれるでしょう。

 どうしても好きになれない人もいるものですが、相手に気付かれないくらいにはなれるでしょう。

 悪意や敵意を薄れさせ、出来れば善意や好意に変えて行きたいものです。

 そうしてご自分の周りに善意や好意の輪を築くことが、世の中の安心やもっと大きな世界の平和にも貢献していることに気付きたいものです。

 人に()(あい)される人・人に尊敬される人、どちらも人に大切にされる人です。

 生まれつきの人間性を持ってこのように大切にされる人もいますが、私達はその素質の有る無しに関わらずそのような人を目指したいものです。

 ちゃんとものを言いながらも人に憎まれ嫌われないように、出来れば多くの人に好かれる努力は、人生を(えん)(かつ)且つ充実する為に欠かせません。

 その為にこうした教えを活用すると共に、普段の感謝反省奉仕を通じて、目に見えずともお守り下さる神祖に手を合わせる信仰生活を深めましょう。

季節のことば    桃の節句(りっしゅん) 

 桃の節句は3月3日、ひな祭りと同じ日です。
 この日は恐ろしいことが起こると言われ、桃を飾って災いを祓う習慣が出来たようです。
 元は旧暦でしたから今の4月上旬でその名にふさわしく桃の花盛りです。
 中国には桃を食べて三千年も長生きしたとか、武陵桃源(桃源郷)の伝説にも桃には邪気を祓う力があると考えられていました。
*桃源郷=中国古来から想像された理想郷。仙人が住む・仙人になれる所。
 日本にも古事記・日本書紀に、黄泉の国の悪鬼に桃の実を投げて撃退する伊邪那岐命の伝説があります。
 こうした故事にも因み、神理教では教師に戴く御神宝(巫部家に伝わる十種神宝)は桃の枝を材料として作られています。
 普段の祓いを行いながら、季節に応じた祓いも大切にしたいものです