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                                                          2010−12

平成22年12月号 第1162号

        

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 

(古神道・神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

 秋季大祭(本院(つき)(なみ)(さい))でのお話し1

 今年の秋季大祭は素晴らしいお天気に恵まれ、お陰で大勢の帰院の皆様と心楽しく共に大きな御神徳を戴くことが出来ました。

 開教百三十年に(あわ)せ御教母昇天九十年を締めくくる(みの)りある大祭となったことを、皆様のご尽力と参拝の熱意に心より感謝申し上げます。

 

秋季大祭(本院(つき)(なみ)(さい))でのお話し@

・満場御礼((こと)(だま)の力)

 大祭では先月号の私には夢がある()(ろう)し、本教の()(じょう)の教えと御神徳が日本中・世界中の人に(しん)(とう)し、(きょう)(じゅ)して頂きたいとの思いを込めました。

 本院十一月の月次祭でもお話ししたのですが、この教えと御神徳を享受頂いた結果として、本院春秋大祭の大教殿満場は当たり前のことになるのです。

 それだけではなく、本院又教会の大祭・月次祭も満場御礼となることが、筆者だけでなく教信徒の皆様と共有する夢の一つとなることを御願いしました。

 それには先ず私達がそうありたいと思い願う事が大切で、その為には先ず(こと)(だま)の力を使わせて戴きましょうと月次祭で御願いしたものです。

 即ち神前や教信徒の間で『本教の教えと御神徳を全ての人が(きょう)(じゅ)し、本院・教会の神殿が満場となりますように…』と折に触れて言葉に出して頂きたいのです。

 言葉に出して祈りあきらめなければ必ずその願いは(かな)うというのが本教の教えですし、言葉に出し続けている内にその為の名案も生まれてくるものです。

 是非読者の皆さまにもお願い申し上げます。

 又勤労者や学校に通う青少年が家族御一緒に参拝され神前奉仕も出来るように、大祭の土・日開催へのご理解を御願いしました。

 

・良質の()(にち)(じょう)(にち)(じょう)への取り込み

 本院の月次祭は祭事の後(こん)(にち)(くん)(ほう)(どく)し、続けてその奉読者が教話を行い、その後筆者が前のようなお話しをするようになっています。

 余談ながら、今月の教話当番で(きょう)(しゅうせい)生から()(いん)に昇格した(すが)(とも)(ひろ)君が、小見出しについて非日常の活用という事を分かりやすくお取り次ぎしていました。

 例えば月次祭に月に一度お参りすることは、気持ちを改める意味では非日常ですが、毎月の習慣とすれば良質の非日常を日常に取り込めるという教話です。

 時間が取れれば、本院の月次祭や大元稲荷・大祓・祖霊祭(年2回)・穂見大祭他の祭事にもお参り下さい。

 しかしその前に所属教会への参拝が基本(日常)です。最近広島の福山教会で聞いたことは、九時の神拝式に毎日参加する人が多いとのことです。

 仕事がある人もその帰りに参拝して帰るのを日課としているのだそうで、これ等は良質の非日常を日常に取り込む素晴らしい例だと思います。

 それは普段の生活でも同じで、例えば()(だしな)みと礼儀(八徳の誠実)・仕事前の準備・掃除(ろう)(えき)・早起き(こっ)()・良い(こと)()(づか)(こと)(だま))等が直ぐに思い付きます。

残りの八徳の例で挙げれば運動や食事(健康)・他者の為の祈り(陰徳)・親切・寄付()(しゃ)()(がお)(あい)()・喜びや悲しみの分かち合い(自白)等です。

 このように教えを生活に活かし、何が日常に取り込めるかをご自身で工夫され、神前も社会も家庭も信頼しあえる一層充実した毎日を過ごし下さい。

 これらを一つ二つと日常に取り込むことが出来れば、毎日の生活の質が上がり周囲の信頼も高まることになります。

・教育・社会福祉活動

 近年税収の低迷を理由に宗教法人からも税金を徴収したり、公益法人の認可制の方向性を作ろうとしたりする流れを感じます。

 即ち『各宗教法人は全ての人の為の公益ではなく、その法人の会員(信者)だけの受益の為のものではないか』という理屈も上げられると聞くことがあります。

 一方日本宗教連盟では、《「宗教」に関する税制改正要望(案)》で、『宗教法人の公益は、いわゆる《公益》事業を行っているからではなく、宗教活動《他の為に祈る》をしていること自体が、宗教法人の公益であります。』と訴えています。

 宗教活動を行う事自体が公益であり必ずしも公益事業を行わなくても良いと主張しているわけで、それは筆者も同感です。

 それでも活気ある宗教法人は、教育や社会福祉活動を行っているところが多いようです。

 即ち本院にも幼稚園がありますがより上級の学校教育・(こん)(きゅう)(しゃ)や高齢者への支援や終末医療等の社会福祉施設の運営です。是等に教えを活かした教育や精神的援助が出来るのです。本教は将来的に計画を持ち、出来る時点でそれらの充実発展を(はか)るべきだと考えます。

 これらが実現することで、本教の教えが生活にも役立つし働き掛けをしているという社会的信頼も深まる事と確信します。これも言葉として口に出し、あきらめないことで必ず実現に向かうよう祈念します。

 

秋季大祭(本院(つき)(なみ)(さい))でのお話しA

・第一段・これまで助けられたこと

 時折お話しお聞き苦しいことですが、筆者は本来母体保全への医学的判断から()(たい)の運命にある所を祖母の願いと祈りで母子共に無事に生を得ました。

 又生まれてからも病気の百貨店と言われ、婦人科以外の病気は全てしたと主治医に言われたそうです。

 今で言う病気の一人総合商社で、()つ各種病気のグランドスラム(主要なものを全て(せい)())という自慢にならない記録の持ち主です。

 それでも今は、何不自由なく心身が働いていることを、不可思議な有り難さと心より感謝しています。

 又こうした素晴らしい教えを持つ本教を主導させて戴く(かみ)(はか)らいに、本当に嬉しく思っています。

 同時に学生時代に()()にして家の仕事から逃げだそうかと考えていたことを、これも心より恥ずかしく思っています。

 大祭で問い掛けたのは、そうした有り難い不可思議を戴いたのは決して筆者だけではなく、ご参集の皆様の大半もそうではありませんか?ということでした。

 各教会やブロック講習会にお邪魔した時や本院の講習会や本誌の体験談で、色んな不思議を戴いた方のお話しをお聞きします。読者の皆様も少なからずお助け戴いた体験があるのではないでしょうか。

 本当に有り難い(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(あわせ)(まつる)(もろもろ)(のかみ)(みお)(しえ)(のかみ)(うぶ)()(ねの)(がみ)の系統だったご守護と、それを伝える教会長・教師・教信徒の皆様のお陰だと思います。

 

・第二段・今から助かること

 しかし、ここで安心して本教の教えとフラフラと付いたり離れたりしていてはいけません。

 助けられた自覚が有り又無い中でも(後で考えればお助け戴いた私達ですが)、では今は何も問題なく過ごしている方がどれほどおられるのでしょうか。

 筆者は人は神の分霊だからこそもっと幸せになるべきだし、先ほどの第一段()たからこそ第二段の幸せに進む努力をしなければならないと考えます。

 私達はまだ第一段をも越えてない、神を信ずるかどうかも決め切れていない人達とは違うのです。

 第一段を経たからこそ、そこで安心(放心)してしまうのではなく、続けて神への信頼感を元に()るぎない幸せを確保する努力をするべきなのです。

 大祭でお話したことは、現代社会で先天性の心身障害或いは健常との境目(グレーゾーン)にいる人の確率は16人に一人だと言われていることです。

 言い直せば私達の身近には4〜5家族に一人はいるし、後天的なストレスや事故からの心身障害を加えると自身を含めもっと多くの確率で存在するわけです。

 しかし私達は、それに気付かない或いは気付かない振りをし、第二段階があることが恥ずかしいこととしてつい(くさ)い物に(ふた)をしてしまいがちです。

 世の中一度あることは二度あり、二度あることは三度あると言います。苦しみと思われる受難も、心得違いを神祖から教えられていると考えましょう。

 二度・三度とあることは過ちを繰り返すという恥ずべき事ではなく、まだまだ心得違いを修正しなければならないという神祖の愛情からのお知らせなのです。

 ドラマや小説のように一度の苦しみを乗り越えればハッピーエンドで何もしなくて良いのではありません。

 生きているということは、二度目・三度目の受難を通じて常に神祖と通じていることを自覚することです。

 回数を重ねるのは恥ずかしいことでも(いじ)められているのでもなく、これにより(れい)(こん)(みが)かれ一層高い安心充実の位に昇る()(てい)()ているとも考えられます。

 従って一度神に助けられたのに又不幸に会った事を恥ずかしいとして隠せば、『(つつ)()(かく)す』を(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)とする(つみ)(おちい)るのです。

 それを先ほども上げた本教の教えである、例えば喜びも悲しみも分かち合う『自白』という手法があるとお伝えしたいのです。         (以下次号)

季節のことば    年越し蕎麦    

 かつては日の暮れが1日の境目でしたから、大晦日は30日の夕方から31日の夕方まででした。
 従って31日の日が暮れるともう新年で、家で感謝の神祭を行った後家族一同が集まり、新年最初の食事として縁起をかつぎ年越し蕎麦を食べました。
 おせち料理が新年最初の食事ではなかったのですね。
 またこの31日の夜に参拝する習慣が初詣ということですから、これも半日前にずれていたようです。
 年越し蕎麦の由来とされる説は『細く長く達者に暮らせることを願う』というのがもっとも一般的です。
 又、金銀細工師が金粉を集める為にそば粉の団子を使用したので『金を集める』縁起物ともされることから、蕎麦を残すと翌年金運に恵まれない等と言われています。
 食べられる量を仲良く残さず感謝と共に戴きましょう。