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                                                          2010−11

平成22年11月号 第1161号

        

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 

(古神道・神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

 私には夢がある

始めに

 9月号と10月号の原稿を作りながら考えたことがあります、と言うよりは以前から考えていたことが原稿を(すい)(こう)する内に形になりました。

 まず9月号と10月号の振り返りも含めて補足させて頂き、最後に筆者が本教の皆様方とご一緒に見たい・実現したい夢について語らせて頂きます。

 

非日常への(いざない)い(9月号)の趣旨(しゅし)

 9月号では普段の会社・学校・家庭で本教教師・教信徒として教務活動や生活リズム(=日常)を大切にし(つつ)も、神前での非日常の使い分けについてお話しました。

 (すなわ)ち神前に足を運びお祓いを受けたり(うかが)い事をしたりする事は、一つの非日常な行動です。

 普段と違うことをするからこそ、善悪両面でストレスも感じながら心も改まり素直さが芽生えます。

 受け入れる教師も、その心を改める手助けとしての演出が必要だということです。霊能力で祈願者の心の中や解決法が分からずとも、教師は解決に導く心の流れを祈願者と伴に作って行くべきなのです。

 そこで、(あわ)ただしく話したり(せわ)しない祭式をするのではなく、じっくりと祈願者の話を聞きゆったりとした受け応えや祭事を心掛けるべきというお話しでした。

 心が改まる雰囲気作りから心掛ける事で、御神徳も不思議に戴けるという信念を持つべきです。

 それは決して派手な施設を作ったり身なりを豪華に(つくろ)ったりして祈願者を(まど)わすのではなく、(いわ)(ゆる)神前での日常の動作として非日常を演出することなのです。

 誠実な気持ちを持って教師(一般人も同じ)の態度と心を改めれば祈願者(相談者)の心も改まり、必ず解決への道が見えてくるというお話しでした。

 

(9月号の補足)日常と非日常の使い分け(職場)

 日常と非日常の使い分けと活用は一般社会に()いても大切で、これを視点にすると自分への反省となり、上司や部下への信用・評価の確認の参考にもなります。

 職場に()いての日常は、時間や規則を守り決まった仕事をやり()げる等の安心に対しての信用です。

 特に早い時間の出勤・待ち合わせは、それだけでも継続によって信用の度数が上がります。それは基本であり知的・体力的な能力以前の問題で、それぞれの内容を高め安定して繰り返す(日常とする)事が大切です。

 職場に()いての非日常は、発想力や仕事の処理能力や気分転換(懇親・宴会)等に()いての才能です。

 それは才能という生まれ持った個人差に加え努力によって積み上げられるものですが、これを社会の為に深め役立てることで信頼も深まるのです。

 日常(生活のリズム)は必要条件で、社会生活をするに当たって心掛けねばならないものです。

 非日常(才能)は十分条件で、社会生活をするに当たって必ず毎日必要なものではありませんが、あれば自分だけでなく他の人にも大きく役立つものです。

 両方のバランスが取れれば鬼に金棒ですが、なかなかそういう人は少ないものです。

 日常(生活のリズム)さえ(おぼ)(つか)ない人もいますが、まずこれを保つことが自分にとっても社会にとっても、心身健全の大切な基本として目標にするべきです。

 非日常(才能)の力に頼り過ぎて周囲との信頼関係を保てない人もいますが、発想・企画等を世に“役立たせて頂こう”という(けん)(きょ)な気持ちが大切です。

 自分の属する職場や仕事の依頼者に“してやっている”と思った瞬間から、(うわ)()はどうであれ周囲の人達の心は離れて行くのです。

 昨今はそうした失敗をする人を、個性(こだわり)(ある)いは知的ではない発達障害や()(へい)(しょう)(主として意志伝達力の()(たい))の一種と考える向きもあります。

 エジソンやアインシュタインや俳優を始め日本の現代の著名な科学者等にも、そうした障害を持ちながら普通以上の幸福を味わっている人が多くいます。

 社会が成熟しそれを補正する大人がいれば、その才能を活かしながらの受け入れは可能なのです。

 ともあれ日常(生活のリズム)を基盤にして・非日常(才能)を役立て、(そう)(ほう)(みが)いて行くことが大切です。

10月号の補足)すき間産業ではない理由

 先月は少し刺激的な題でしたが、神理幼稚園も本教の両者とも決して“すき間産業”だと()()しているのではありません。

 支持者・(しん)(ぽう)(しゃ)の数の面ではそう見えるものの、教育・教義理念とそれを達成する為のそれぞれの手法は他の何にも圧倒的に(まさ)る王道であると述べました。

 先月上げた次の3条件の通りではないからです。

1.消費者の数が少ない(特定の用途や目的に特化した需要であるため)。とありましたが、

 現在の状態がそうであっても御教祖と二代管長の時代のように、私達がこの教えを生活に活かし御神徳を(きょう)(じゅ)する内に信奉者は必ず再度増えると信じます。

 (特定の用途や目的に特化した需要であるため)についても、本教は特化した小さな目的を達成する為ではなく、人類全体の平和と幸福を志向しています。

 一人一人の小さな幸福を達成しながら、これを増やしつつも大きく全体を包み込むことの出来る至上の教義と神術と御神徳を受け伝えています。

 教育や宗教の基本から始まる考え方であり、広く活用出来る理論であり手法でもあるからです。

2.(せん)(ざい)(てき)なニーズ(要求)の為、誰も『産業』として考え付かなかった分野。とありましたが、

 本教は潜在的な教えではなく、正々堂々とした表の誰もが必要とする、人が歩むべき道の根本です。

 又、決して時代遅れの民衆宗教等でもありません。

 本教の努力不足もさることながら、戦後日本人の心の根幹であった神道は、占領軍の神道指令により戦争に()(たん)したものだという(きょっ)(かい)と共に否定されました。

 占領軍(GHQ)が去った後もその御用学者達は居残り、変質した思想は日本の教育界に色濃く残されたのです。その結果、自分でものを考えられない日本人が増え、信仰は心の弱い人が行う恥ずかしい行為のように考えられるようになりました。

 それは現代史だけでなく、仏教・キリスト教の伝来時や江戸幕府の(てら)(うけ)(せい)()や明治維新の神道復古とその反動により日本人の心は左右に振れ続けたのです。

 しかしもう一度日本の歴史を振り返って見ると、神道の教えは決して潜在的なニーズ(要求)等ではなく、日本人の根本的な魂であるはずです。

 先に挙げたように様々な()(こく)な歴史を乗り越えて、それでも世界で(ゆい)(いつ)形を保ってきた神道を私達は見直し・思い(おこ)し、誇りを持って信仰に励みましょう。

 

3.既存の手法では収益性が悪く、市場としての魅力が無い。とありましたが、

 この点宗教、殊に本教は存続維持の為の努力・工夫はするものの、収益性を考える団体ではありません。

 自慢ではありませんがその昔、“神理教というよりはお金のない(ひん)()(きょう)”と陰口を言われたこともあると聞いています。御教祖の教歌に、

田も畑も  何か()しまむ  ()()()

    高き心の  (かて)を積み得て     [桃の一枝]

があり、本教の活動資金が尽き掛けたとの連絡に、家伝の田畑を売るように指示した時の歌と伝えられます。

 ともあれ収益を目指す物ではないないにしても、沢山の人でこの素晴らしい教えを分かち合えることが出来れば、必然的に経済的な問題は起こりません。先月“既存企業が進出していない分野だから…始めやすい”という風な説明がありましたが、確かにその利はあります。本教は全ての人に受け入れられる自然の教えですが、この理念が現在少数派であることを考えると、この点組織としての発展には有利とも言えます。

 本教は本当に素晴らしい教えなのですから。

 

私には夢がある

「私には夢がある(I Have a Dream.)」は、人種差別の撤退を訴えたアメリカのキング牧師の言葉として有名ですが、筆者にも夢があります。

 本教を信奉する一信者であり、この素晴らしい教えを伝えられる立場にある者としての夢です。

 サッカーのワールドカップで活躍した本田選手も出身校で、後輩達に『夢を持つこと・壁にぶつかってもあきらめないこと』を伝えていました。

 夢の中心は、(もち)(ろん)教信徒の皆様と社会の幸福の上に成り立つ本教の発展です。その具体化である本教の布教は、本院や地方での大祭や講習会の回数と参加者が増え、そこで共に信奉し又教師となって活動する教友を増やしたいものです。ご理解・ご協力を頂きたいと思いますし、まず本院から実践して行きます。

 又教育や社会福祉活動は布教活動と共に教えを(じっ)(せん)するものですから、両輪のように考えたいものです。

 将来を考えての夢は親子孫の3代で参拝出来る習慣作りです。その為にはやはり大祭の日・祝日開催を考えなければなりません。今年から来年に掛けて自然と日・祝日に掛かります。お(そろ)いでの参拝をお待ちします。

季節のことば    立冬(りっとう)    11月7・8日頃(今年は7日)

 立冬は二十四節気の一つで、朝の冷気が焚火等の煙を天に昇らせ、冬が立つような頃です。
 二十四節気を更に三つに別て七十二候としますが、日本の立冬の三候は初候《山茶花始めて開く》で始まります。
 皆様が連想される山茶花の歌は、『垣根の垣根の曲がり角』で始まる唱歌《たき火》でしょうか、『くもりガラスを手で拭いて』の演歌《山茶花の宿》でしょうか?
 続いて、二候《地始めて凍る》で冷たく寒い季節となり、三候《金盞花香る》となります。
 立冬は季節の上では冬ですが、全国一般には少し寂しいようなもの悲しいような晩秋の趣が感じられます。
 こうした趣に浸りながら物事を深く考える季節だから『読書の秋』と言われるのかも知れません。神祖との繋がりについても深める季節として頂きたいものです。