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                                                          2010−10

平成22年10月号 第1160号

        

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 

(古神道・神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

 すき間産業!?

すき()()()(すき)())産業とは

 すき間産業≠ニいう言葉をご存じでしょうか。

 インターネットで調べてみると、

『一般の大衆には目を向けられないけど、一部の人達の間では熱烈に支持されている。といったビジネス』とあり、ニッチ産業とかニッチ市場とも言うそうです。

 ニッチ(Niche)とは「(すき)()」や「くぼみ」の事です。

 ()(そん)の商品やサービスでは満足出来ない消費者が存在している場合、これらの消費ニーズ(要求)の総体がニッチ市場です。既存のサービスや商品といった物から取りこぼされた状態にあるためこのように呼ばれ、一般にニッチ市場はニーズの規模が小さい市場のことです。その理由として、

1.消費者の数が少ない(特定の用途や目的に(とっ)()した(じゅ)(よう)である(ため))。

2.(せん)(ざい)(てき)なニーズの為、誰も『産業』として考え付かなかった分野である。

3.既存の手法では収益性が悪く、市場としての魅力が無い。等が()げられるようです。

 市場規模の小ささから既存企業が進出していないため、ベンチャー企業が進出しやすい。転じて、

『大手資本が手をつけないようなマーケット』のことを言う場合もあるのです。

 

神理幼稚園の教育はすき間産業型?

 先月号で少し触れましたが、本院(けい)(だい)の神理幼の教育理念や手法は一部の保護者の間では熱烈に支持されていても、まだ一般には目を向けられていません。

 保育手法は日常性(繰り返し)を基本にしながら、非日常性を効率よく個性に合わせて工夫しながら取り入れる本教の信仰への取り組み方と同じです。

 これに加え平成20年度から、家庭や一般社会と濃度(生活の在り方)を(そろ)える意味もあり縦割り保育≠ノしています。(すなわ)ち各6〜8人の3・4・5歳児が一つのクラスで過ごしているのです。

 始めは年齢別の習熟度や体力差からくる(いじ)め等を心配する保護者も居られましたが、その効果が出始め心配が無用なことが理解出来るようになりました。

 基本は3学年で一緒に過ごしながら、はっきりと習熟度が違う遊びは年齢別に行いますし、体力差がある運動会の駆けっこ等も別けて行います。

 上の子は編み物や質の高いゲームをしながら、目配りをして下の子どもを導き世話もこなします。

 普段は一緒に過ごすことで、ゴッコ遊び等のテーマ制作に取り組む時は(なん)()()により取り組む場所が違う(制作・販売・客等)ので全体像が幅広くなります。

 最初難しい部分を教えながら上の子がやっていたものが、下の学年に直ぐに追いつかれそうになる事から、上の子は一層質の高い遊びを工夫します。

 いわゆる『遊びの文化』が単年度で終わらず、そのクラスで(じゅく)(せい)しながら(ちく)(せき)されて行くのです。

 保育者(教師)は世話等について楽になった分、保育室等の環境整備や成長の観察等に(けい)(ちゅう)出来ます。

 多数の長所が上げられる中で、本園の自慢は宗教的な(じょう)(ちょ)が自然に味わえるところです。積み木やラキュー(知育ブロック)等で作った総合作品には大教殿や、そこで参拝する様子などが反映されています。又友達の病気が治るようにお祈りする姿等も見られます。

 私達はこうした手法を、自然に子どもの発達を(うなが)す保育の王道だと考えていますが、日本の一般社会ではまだそうは受け止められていないようです。

 今、日本を抜かして最も教育レベルが高いと言われる北欧ではこうした考えからくる手法が基本ですが、日本ではまだ小学校の(した)()けの感覚が強いようです。

 (すなわ)ち“小学校に行っても困らない”ように、(しつけ)を行い・他園から行く子どもに(おと)らないように文字数字等を前もって教え込む考え方が未だに王道です。

 同じ“小学校に行っても困らない”ように、遊び込む中で礼儀の基礎を学び・人の話を聞ける事で授業が理解出来るとする考え方はすき間産業(教育)なのです。

 成熟した正義感・秩序感・自主性を持った社会に改善発展させる為に、こうした教育理論と手法を一般化させ、すき間産業(教育)から(だっ)(きゃく)させねばなりません。

 

神理教の教えはすき間産業型?

 こんな題を書くのは大変(おそ)れ多いことですが、本教の教義理念や手法は一部の信奉者の間では熱烈に支持されていても、今や一般から目を向けられていません。

 本教の教師・教信徒でさえこの教えの確かさ・本当の素晴らしさを理解していない人もいるかも知れません。

 本教を理解して信奉する人が少なくなるのは、社会の為にも不利益ですから何とかしたいものです。

 本教は明治27(1896)年に独立を認められた時、成年男女2百数万人の署名を集めました。

 子どもが多い時代での人口が4千万人位であり、世帯数にすると日本人の1割を越えていたと思われますから、現代とは(かく)(せい)(かん)あります。

 その理由は(おご)りや(おこた)りや歴史の流れ等あるでしょうが、徳力の地に(うつ)って約1千6百年経った今でも、この教えは少しも色あせていません。それどころかこの(こん)(めい)する世の中にあって、活用してくれる人を待ちながら益々発光しているとさえ言えます。

 教義・霊魂観・神徳・神術・歴史外全ての分野で最高の水準を保つ古くても新しい本教の教えは、いつの時代でも変わらず活かして行くことが出来るのです。

 本教が宗教界の王道であり神に近づく1番の近道であることは、本誌を毎回購読の皆様には(すで)にご理解の事と思います。(ほん)(きょう)(たい)()にも、

【…。(この)(みち)(おき)(ほか)に道という道は(さら)に有るべからず。

(もし本教の教えをこの世界から取り去ったならば、人に神の(ことわり)や生き方を伝える教えは無いに等しいのである。→宇宙・人類発生以来の自然で真っ当な本教の教えさえ守っていれば、外の教えなど(へい)(よう)する必要もないのだ。)…】とあります。

 しかし現実は“安心・充実した生活が出来る”ように、神が創った宇宙・自然・人、又それ等は仏性(仏の()(ぞう))・()(じょう)という考え方からの手法等が(いま)だに王道です。

 同じ“安心・充実した生活が出来る”ように、大元の先祖が宇宙・自然であり人はその子孫という神道の考え方からの手法はすき間産業(宗教)なのです。

 仏・基の“(ごう)”や“(げん)(ざい)”という消えることのない負債と、神道の“(つみ)”という祓えば消える負債への考え方の違いも王道とすき間産業の立場を逆にしています。

 安心・充実の社会に改善発展させる為に、本教の教えと神術を再び一般化させ、生まれ変わった積もりになってすき間産業(宗教)から(だっ)(きゃく)させねばなりません。

 

無神論・自分(家族)教について

 しかし現実は信仰が(すた)れ、無神論を(ほこ)り・『人は死ねば終わり』等と公言し・そう考える人が増えて来ました。

 医学や科学の進歩に頼り多くは医学で解決出来・科学で解明出来るので、信仰は面倒(くさ)いもの・()(さん)(くさ)いもの、と受け止められるようになったのです。

 少し考える人でも、『自分の宗教は神道や仏教やキリスト教等の何教・何派でもない自分(家族)教だ』等と自分や家族に言い聞かせ、得心する人もいます。

 こうした人たちを育てた地域社会や家庭に、信仰の何たるかを伝える力が無かったのでしょう。

 伝える方法は難しい事ではなく、親や祖父母が神仏に手を合わせる姿を見たり、神社や教会の祭に行って親と一緒に手を合わせてから夜店に行く等の体験です。

 まあ、自分(家族)教の人の方が何も考えない人や無神論者よりましですが、次のようなことに気付き・考え合わせて頂ければと記してみます。

 先ほど、幼稚園教育で遊びの文化≠ェ単年度で終わらずそのクラスで(じゅく)(せい)しながら(ちく)(せき)されて行く、と記しましたが、それは宗教にも同じ事が言えます。

『人生で必要な智恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ(ロバート・フルガム)』という本がありますが、人の本性はまず白紙で何もないように思えます。しかし(こと)に神道では白紙であるようで、秩序感・正義感・自主性等と伴に信仰心という書式を生まれながらに持っていると考えます。ここが人の本性は神という()(えん)で、白紙とはいえ(すで)にこうした書式は決まっているのです。

 そこで親や保育者を含めた幼児同志が(せっ)()(たく)()する中で人生の智恵を学び『遊びの文化』が出来るのです。

 宗教は教育の書式に加えもう一段深い信仰心という書式があり、(そう)()(れん)()・分かち合い・(ちく)(せき)等を()て『信仰の文化』となります。そしてそこに神性を持った器としての宗教教団の必要性が出てくるのです。

それは『遊びの文化』と同じように、決して自分一人や家族だけで出来るものではありません。より広い社会の体験・錬磨を集め、より長い世代間の分かち合いや蓄積によって成り立つものです。

 教育に秩序感・正義感・自主性等という(しょ)(しき)(本性)を活かす手法があるように、宗教にも信仰心という書式(本性)を活かす自然な手法が必要です。

 そこに信仰の本筋である『(おのず)(から)の道』を長い歴史を()()ぎ伝えた、本教の真の価値が見出されるのです。

季節のことば    霜降(そうこう)    10月23日頃(今年も23日)

 霜降は二十四節気の一つで、秋もそろそろ終わりに近く霜が降りる頃という意味です。
 今年は猛暑日の新記録が各地で続いていますから、本院で霜が降りるのは大分後のことになるでしょう。
 二十四節気を更に三つに別けて七十二候としますが、日本で言う霜降の三候は初候《霜初めて降る》で始まります。
 続いて、二候《少雨時に施す》で秋雨も終わる乾期の中にも恵の雨が少し降り、三候《桐蔦黄ばむ》となります。
 三候となると11月の初旬ですが、今年は桐や蔦が黄ばみ出すのも遅くなりそうです。
 今季は20日(水)から立冬前日の11月6日(土)までが土用ですから、その期間の土木や建設は控えるか、教会長・教師に間日(手を付けても良い)や祭事等よくご相談下さい。
 秋の大祭でお会いするのを楽しみにしています。