背景色が選べます!


                                                          2009−9

平成21年9月号 第1146号

        

H.21. 9月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 人は誰の子?

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

(あな)()の子どもは誰が作った?

数年前、福山教会の大祭に(うかが)った()りでのことです。

大祭後のアルコール無し(*注)(なお)(らい)で、挨拶に来られた信者さんに教会長が突然のように質問をされました。

(なお)(らい)=祭事の後に神と祭官と参拝者が共に行う会食。

『直会までが祭り』と言われ、参加が望ましい。

「○○さん、今は幸せよね。」

「はい、お陰でとても幸せになりました。」に続き、

(あな)()、お子さんがいるけど自分が作った?」

「うんうん自分が…」と応えるのを(さえぎ)るように、

「そうではないでしょ。貴男がお子さんのどの部分を作ったの?手足、それとも髪の毛一本でも作ったの?」

「あ〜、うん。自分が作ったものではありませんね」と応えるのに、

「そうでしょう…」と(たた)()けるように、神と人の関係や在り方について、又神の有り難さから感謝の気持ちを持つ大切さや普段の御先祖へのお(まつ)りの心掛けについて語り掛けられるのでした。

 その(よく)(とく)のない(はな)()りに、教会発展の()(けつ)を見たような気がしました。

 この会話の教会長の言葉を裏付ける教えが、(ほん)(きょう)(たい)()≠ノあります。

 

(ほん)(きょう)(たい)()

・人の本質を理解する(とびら)

本教大意≠ヘ、本教の素晴らしくも(こう)(だい)()(へん)教えを最も短く説明する御教祖の教えです。

(かん)(けつ)で分かり安い文章ながら、一点『皆様はどうご理解されているかな?』と思われる部分があります。

それは、(ぼう)(とう)の『人の(からだ)(おや)(うみ)たるものなれども、(その)(もと)(もと)(うぶ)()()をさかのぼれば人は(ことごと)(しん)(そん)にして、(こと)(たま)(しい)(いま)(むす)()(かみ)より(たまわ)り、(からだ)(そだて)(なす)の神の(つく)()(たま)えるものなれば、()()(かみ)(うやま)(こと)(わす)るる事なかれ。…』です。

 ここの意味さえ押さえておけば、自然に本教の本意や信仰の必要性とその(しゅ)()(めい)(りょう)になってきます。

・人は神の(ぶん)(れい)(わけみたま)

 神道では『人の(れい)(こん)は大元の神の(ぶん)(れい)(わけみたま)を戴いた存在である』、と考えます。

それは本教の基本の教え・(さと)の一つです。

 先月号でも述べたように、キリスト教の[神が土から人間を造った]や、インド仏教の[{魂の根源は解かずに}(りん)()(てん)(せい)する]()く等とは(いっ)(せん)(かく)した感覚です。

 神と人とは量こそは圧倒的に違うものの、人は神の分霊ですから質は全く同じものです。

 清々しい神性を持つものの、神と比べ小さくて(けが)(やす)いからこそ、常に祓いを行うのが神道の極意(悟りの一つ)でもあるのです。

 決して(きたな)いから祓うのではなく、戴いたままの()(れい)な状態を保ち、一点の曇りもない状態にしておくべきことから、(つね)()(ごろ)の祓い≠行うのです。

信仰とは自分の(とく)((たま)(しい))(みが)く事』とはこのことを言っているのです。

・霊魂と体は神から戴いたか、親から伝えられたか

 ここで分かりにくいところは、結局霊魂や体を下さったのは誰か?、ということではないでしょうか。

 御教祖の御歌に、

人の人  ()むにはあらず  ()()()()

    神ぞ人をば  人を()まする (皇道百首)

があり、そこのところをうまく伝えているように思います。歌の通りで、

『人が自分の力で人(子ども)()むのではなく、神が人を使って人(子ども)()ませて下さるのです。』という意味です。

 この場合産ませたいと思うのは神であり、生みたいと願うのは親となります。

 つまり神と人との思いと願いが一致しているし、一致しているのが本来の神と人との在り方なのです。

 本当の自由というのは、枝から千切れ飛んで()(まま)に風と遊ぶうちに直ぐに枯れしぼんでしまう葉っぱのようなものではありません。

 神の意志と私達の意志は神とその子孫として共有されるべきであり、それこそが望めば(かな)い望まずとも満ち足りるという心境に達するものなのです。

 そこで本教大意と御歌の結論は同じで、神の思いと親の願いが一致して、子どもを(さず)かったということになります。

・子どもは(たまわ)り物

 そうした(かみ)(ことわり)を忘れ果て、『自分が()んでやったのだ』と考える人が増える事から、まず家庭次に世の中がおかしくなってくるのです。

 子どもは子どもで神を思わず、親に産んで戴いたことも忘れ『親は自分に生きる権利や自由(金銭や物品)を提供する責任がある』などと思い違えるのです。

 先ほどの風に千切れ飛んで舞い遊ぶ葉っぱのような生き方が自由、と思い迷う子どもが世の中に増えてくるのです。迷いは(まが)()びで、自分でも気付かぬうちに更に迷うという(あく)(じゅん)(かん)()()るのです。

 そうではなく、子どもは自分の願いと神からの賜り物と気がつけば、神が私達のこと構って下さるように、(しょう)(ちゅう)(たま)のように()(いつく)しむようになるものです。

 そうすれば子どもは親の愛情に気付き、産んで戴いた事への感謝の気持ちが生まれるのです。

 たった少しの気持ちが違うだけで現代の子殺し親殺しから、助け合い慈しみあって本当の安らぎ幸せを得ることとの(うん)(でい)差となるのです。

()()()(ひの)(かみ)とは

 御歌の()()()(ひの)(かみ)≠ニは何でしょうか。

 本教の主祭神の2・3番目に、(たか)()()()(びの)(かみ)(かみ)()()(びの)(かみ)≠ニ、似た名前の神が居られます。

 本教大意にも(むす)()(かみ)≠ニ(そだて)(なす)(かみ)≠ェあります。

(あめ)()()(なか)(ぬしの)(かみ)▼高皇産巣日神▼神産巣日神≠総称して(ぞう)()(さん)(じん)≠ニお()びし、字は同じですが読み方がムスビ≠ニゾウカ≠ナ違います。

 似ているようで違うような名前について、どう解釈すれば良いのでしょうか。

 それは本教大意の(むす)()(かみ)((たま)(しい))≠ニ(そだて)(なす)の神((からだ))≠総称したと考えるのが()(とう)です。

 (むす)()の神から(たま)(しい)を戴き、(そだて)(なす)の神が(からだ)を作られ、それを親が産んだということです。

 この三者のどれが欠けても、人として生まれてくることはないのです。

 御歌も本教大意も人の霊魂と体は、神の御意志と親の願いが一致調和したところに人という形を成したことを伝えています。

どちらか一方的な命令や願いで出来たものではないのです。それはこの世の在り方に似ています。

(すなわ)ち神が善い物をこの世に形((かみ)())として(あらわ)そうとして宇宙・自然を造り、神の子孫である人がそれを形にしようとすることです。

言うなれば善い物・良い社会(=神の世)を造るというのは人の本性である、という哲学の根拠でもあるのです。

ここを理解出来れば、本教大意≠フ続きは残らず(とく)(しん)に至るのです。

・人はヒトマリ

 人の(ほん)(げん)(その言葉が持つ本来の意味)はヒ・アト(()(あと))やヒ・トマリ(()()まり)やヒ・タリ・トドマリ(()(たり)(とど)まり)があげられます。

 本教一般では最後の()(たり)(とど)まりを取り、神から戴いた霊魂が満ち足りて人に(とど)まっている状態を人と言います。この言霊からも人の本質が(うかが)い知れます。

 

(のう)はナヅキ、世の(ゆが)みを直す手掛かり

 また(のう)の本言はナ・ヅキ(ナ→ネ=根・付き)で、根≠ツまり大元の根≠ナある神明に付き添っている状態を言うのです。

 また悩む(ナ・ヤム)は脳()が病む(ヤム)ということで、まさに悩める現代社会の病状の原因です。

 御教祖は悩み(脳が病む)の原因は、(まつ)るべきもの(神と先祖)を祀ってないからと断じておられます。

 神理教の私達は()()(きも)(めい)じて、自分の身の回りから整え、世に役立つべく周囲に(すす)めて行来ましょう。


 
季節のことば    長月(ながつき) 

 美しくも優れた日本語である、月の和名シリーズです。
 『秋の日は釣瓶落し』と言いますが、寝苦しかった夏に比べ急に長くなったように感じて付けられたという説が
あります。
勿論、本当に夜が長いのは冬至(12月22日)前後です。
稲熟(いなあがり)月、稲刈(いなかり)月、穂長(ほなが)月などが変化したものとする説もあります。
国文学者の折口信夫(おりくちしのぶ)は、9月は5月と並ぶ長雨の時季で「ながめ」と呼ぶ” eq \o(\s\up 9(もの),物)”