H.21.
9月号
自然の道 管長 巫部祐彦
人は誰の子?
(神理教を“本教”と記します)
貴男の子どもは誰が作った?
数年前、福山教会の大祭に伺った折りでのことです。
大祭後のアルコール無しの直会で、挨拶に来られた信者さんに教会長が突然のように質問をされました。
*直会=祭事の後に神と祭官と参拝者が共に行う会食。
『直会までが祭り』と言われ、参加が望ましい。
「○○さん、今は幸せよね。」
「はい、お陰でとても幸せになりました。」に続き、
「貴男、お子さんがいるけど自分が作った?」
「うんうん自分が…」と応えるのを遮るように、
「そうではないでしょ。貴男がお子さんのどの部分を作ったの?手足、それとも髪の毛一本でも作ったの?」
「あ〜、うん。自分が作ったものではありませんね」と応えるのに、
「そうでしょう…」と畳み掛けるように、神と人の関係や在り方について、又神の有り難さから感謝の気持ちを持つ大切さや普段の御先祖へのお祀りの心掛けについて語り掛けられるのでした。
その欲得のない話し振りに、教会発展の秘訣を見たような気がしました。
この会話の教会長の言葉を裏付ける教えが、本教大意≠ノあります。
本教大意
・人の本質を理解する扉
本教大意≠ヘ、本教の素晴らしくも広大無辺の教えを最も短く説明する御教祖の教えです。
簡潔で分かり安い文章ながら、一点『皆様はどうご理解されているかな?』と思われる部分があります。
それは、冒頭の『人の體は親の産たるものなれども、其元の元の産須根をさかのぼれば人は悉く神孫にして、殊に霊魂は今も造化の神より賜り、體は化育の神の組織玉えるものなれば、常住に神を敬う事を忘るる事なかれ。…』です。
ここの意味さえ押さえておけば、自然に本教の本意や信仰の必要性とその趣旨が明瞭になってきます。
・人は神の分霊(わけみたま)
神道では『人の霊魂は大元の神の分霊(わけみたま)を戴いた存在である』、と考えます。
それは本教の基本の教え・悟りの一つです。
先月号でも述べたように、キリスト教の[神が土から人間を造った]や、インド仏教の[{魂の根源は解かずに}輪廻転生する]と説く等とは一線を画した感覚です。
神と人とは量こそは圧倒的に違うものの、人は神の分霊ですから質は全く同じものです。
清々しい神性を持つものの、神と比べ小さくて穢れ易いからこそ、常に祓いを行うのが神道の極意(悟りの一つ)でもあるのです。
決して汚いから祓うのではなく、戴いたままの綺麗な状態を保ち、一点の曇りもない状態にしておくべきことから、常日頃の祓い≠行うのです。
『信仰とは自分の徳(霊魂)を磨く事』とはこのことを言っているのです。
・霊魂と体は神から戴いたか、親から伝えられたか
ここで分かりにくいところは、結局霊魂や体を下さったのは誰か?、ということではないでしょうか。
御教祖の御歌に、
人の人 産むにはあらず 御産須日の
神ぞ人をば 人を生まする (皇道百首)
があり、そこのところをうまく伝えているように思います。歌の通りで、
『人が自分の力で人(子ども)を産むのではなく、神が人を使って人(子ども)を生ませて下さるのです。』という意味です。
この場合産ませたいと思うのは神であり、生みたいと願うのは親となります。
つまり神と人との思いと願いが一致しているし、一致しているのが本来の神と人との在り方なのです。
本当の自由というのは、枝から千切れ飛んで気儘に風と遊ぶうちに直ぐに枯れしぼんでしまう葉っぱのようなものではありません。
神の意志と私達の意志は神とその子孫として共有されるべきであり、それこそが望めば適い望まずとも満ち足りるという心境に達するものなのです。
そこで本教大意と御歌の結論は同じで、神の思いと親の願いが一致して、子どもを授かったということになります。
・子どもは賜り物
そうした神の理を忘れ果て、『自分が産んでやったのだ』と考える人が増える事から、まず家庭次に世の中がおかしくなってくるのです。
子どもは子どもで神を思わず、親に産んで戴いたことも忘れ『親は自分に生きる権利や自由(金銭や物品)を提供する責任がある』などと思い違えるのです。
先ほどの風に千切れ飛んで舞い遊ぶ葉っぱのような生き方が自由、と思い迷う子どもが世の中に増えてくるのです。迷いは禍呼びで、自分でも気付かぬうちに更に迷うという悪循環に墜ち入るのです。
そうではなく、子どもは自分の願いと神からの賜り物と気がつけば、神が私達のこと構って下さるように、掌中の玉のように撫で慈しむようになるものです。
そうすれば子どもは親の愛情に気付き、産んで戴いた事への感謝の気持ちが生まれるのです。
たった少しの気持ちが違うだけで現代の子殺し親殺しから、助け合い慈しみあって本当の安らぎ幸せを得ることとの雲泥の差となるのです。
・御産須日神とは
御歌の御産須日神≠ニは何でしょうか。
本教の主祭神の2・3番目に、高皇産巣日神∞神産巣日神≠ニ、似た名前の神が居られます。
本教大意にも造化の神≠ニ化育の神≠ェあります。
天之御中主神▼高皇産巣日神▼神産巣日神≠総称して造化三神≠ニお称びし、字は同じですが読み方がムスビ≠ニゾウカ≠ナ違います。
似ているようで違うような名前について、どう解釈すれば良いのでしょうか。
それは本教大意の造化の神(霊魂)≠ニ化育の神(體)≠総称したと考えるのが妥当です。
造化の神から霊魂を戴き、化育の神が體を作られ、それを親が産んだということです。
この三者のどれが欠けても、人として生まれてくることはないのです。
御歌も本教大意も人の霊魂と体は、神の御意志と親の願いが一致調和したところに人という形を成したことを伝えています。
どちらか一方的な命令や願いで出来たものではないのです。それはこの世の在り方に似ています。
即ち神が善い物をこの世に形(神代)として顕そうとして宇宙・自然を造り、神の子孫である人がそれを形にしようとすることです。
言うなれば善い物・良い社会(=神の世)を造るというのは人の本性である、という哲学の根拠でもあるのです。
ここを理解出来れば、本教大意≠フ続きは残らず得心に至るのです。
・人はヒトマリ
人の本言(その言葉が持つ本来の意味)はヒ・アト(霊・跡)やヒ・トマリ(霊・止まり)やヒ・タリ・トドマリ(霊・足・止まり)があげられます。
本教一般では最後の霊・足・止まりを取り、神から戴いた霊魂が満ち足りて人に止まっている状態を人と言います。この言霊からも人の本質が伺い知れます。
脳はナヅキ、世の歪みを直す手掛かり
また脳の本言はナ・ヅキ(ナ→ネ=根・付き)で、根≠ツまり大元の根≠ナある神明に付き添っている状態を言うのです。
また悩む(ナ・ヤム)は脳(ナ)が病む(ヤム)ということで、まさに悩める現代社会の病状の原因です。
御教祖は悩み(脳が病む)の原因は、祀るべきもの(神と先祖)を祀ってないからと断じておられます。
神理教の私達は此処を肝に銘じて、自分の身の回りから整え、世に役立つべく周囲に勧めて行来ましょう。