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2009−8
H.21. 8月号 ―人の死とは― 2
(神理教を“本教”と記します) 臓器移植改正案の衆議院通過 先月号を投稿して間無しに、衆議院で脳死に伴う臓器移植法案が可決されました。 『せめて15才未満は別に時間をもって検討しよう』という提案も否定され、あっけなく通過したようです。 これが次に参議院を通ると、脳死は死となり、本人の拒否表明がなければ家族の同意で可能になり、15才未満も同じく家族の同意で可能となります。 多くの議員(法案提出者でさえ)の意識や研究姿勢の低劣さは先月お伝えしましたが、テレビでも居眠りをする議員に怒りを発する報道がなされていました。 そうした議員さんは生命倫理より、公共事業や国会解散等の方への関心が偏っているのでしょうか。 生命倫理問題の判断権利は主張しても、その基本的な観念等は自分達とは別分野と考えているのでしょう。 それならば、米・欧・中近東のように、もう少し日本の宗教者の言い分に耳を傾けてから判断すればと思うのですが、そうはいかない理由があるようです。 結果的に時間稼ぎになることを恐れているのでしょうが、そうではなく時間の要る重要な問題を決断しようとしている事に気付いてもらいたいものです。 急ぐ理由 議員達の意識や研究が薄いままでも結論を急ぐのは何故でしょうか。
また脳死は臓器移植をする時においてのみ死とされることを考えた時、矛盾を感ぜざるを得ません。 脳死移植をする個人に対しては死と認め、そうでない脳死の人には保険も使えるというのは如何なものでしょうか。テレビで河野議員が日本は過去多くの患者を殺したと叫んでいましたが、この法案が通ると多くの提供者を殺す可能性の有る事に気付くべきです。 2については先月号投稿の後、やはり教派連で新しく得た情報があります。 近日のニュースに3億円(従来はその約半分)を請求された例もあるものの、外国が受け入れ拒否をしていない(5%枠がある)ことです。 世界保健機構(WHO)の論点は、外国患者の受け入れの諾否ではなく、臓器売買問題なのです。 少なくとも一般には5%枠の現状を告げないまま、『近い将来外国は受け入れ拒否となるから、早く法案を通さないと』というのは強迫観念の植え付けです。 こうした情報操作や待機者の心情を前面に出して、提供者の人権を隠し、改正案を強行しようとしているとも受け取れます。
臓器移植の現場 脳死移植を申し出ると待機者の手術に併せて、提供者に準備の薬剤投与がなされるそうです。 是を見た遺族は、死の準備に抵抗を覚えるそうですし、ここから回復についての希望は消えて行くのです。 また心臓等の重要臓器は脳死 (心臓が動いている) 状態でしか取り出せないそうです。 そこで脳死は死であると認めながらも、臓器を取り出す前に全身麻酔をするのだそうです。 麻酔をしないで取り出そうとすると、提供者の体が拒否反応を示すからだそうです。 脳死と言っても、2〜3日で命が消えるであろう脳死やすぐに亡くなるのではない長期脳死があります。 現代医学では回復の可能性がゼロではない脳死を、法律で一律に死と決めるのは問題です。 賛成論の真意 臓器移植の賛否論については先月も紹介しましたし、マスコミにも体験談などが報道されていました。 賛成論の言い分や気持ちは理解出来ます。 筆者は反対論者ですが、もし家族が病気になり移植さえすれば元気になるという確証があり、提供者がいれば『お願いしたい』という気持ちになるでしょう。 その場に立ってみなければ『教義や信念からしません』と言えるかどうか分かりません。 多くの賛成議員達の思惑とは違うであろう賛成論の真意はここにあるのだと思います。 多様な反対論 反対論で記憶に残っているのは、脳死状態の娘さんを神社の七五三に連れて行く話でした。 神主さんに問い合わせると、死を嫌う神社であったにも関わらず『死ではない』と言われお祓いをして下さったそうです。家族が喜ぶと娘さんも微笑んだと、(思い込みかもしれないものの)言われるのでした。 こうした状態を死と認めるわけにはいかない、ということでした。 以前紹介した“ひろさちや(宗教評論家)”氏は、 『例えば脳の弱い人も体の弱い人も“それが良し”として受け入れるのが宗教者であり、人の心の持ち方であるはず。脳死といっても他の障害と同じく“脳が弱い人”であり、それが駄目だと思い込んで臓器を取るのは弱い者いじめである。 人の体は部品ではなく、神に戴いた命を含めた体全体と捉える事から、亡くなると命を失う臓器でも他人に渡す事は神の意志に背く事と考えるのです。 この観点から臓器移植は現代の魔女狩りであるし、後世から同様の批判を受けるであろう。』等、反対論はその他も様々にあるようです。 本教の教え(人の死とは) 本教では“死”の本言は“風火(=神霊)”・“去ぬる(=去る)”で“霊魂が体から去ること”と教えます。 シヒイヌルのはどの状態かについて、医師でもあった御教祖は『神から戴き続けた気・息即ち呼吸が止み、やがて心臓が止まった時』と教えています。 前四代管長様は平成11年の春の大祭で、『御教祖は現代医学の脳死をもって人の死とする、とする考え方には反対であられたろう』と結論付けられました。 また『命は神から与えられたいわゆる運命であり、延命を切望する前にどう生きるかを考えるべき。 御神徳を仰ぐ中で神の道を歩もうとすれば、“臓器移植に期待しない”生“と”死“についての受け止め方が出来るはず。 その受け止め方を心安らかに深める事になりたいものである。(以上筆者が約言)』と教えて下さいました。 これからの考え方
『では角膜移植は如何でしょう?』 これも前四代管長様から聞いた事ですが、血液を含め人の生命の維持に差し障りが無い部分については止むを得ない、の立場を取るとのことでした。 これまでの話を勘案しての個々の解釈となります。
「あなたの生は間違っている」とは言いません。 「そうなったからには、提供した人の分もしっかりと生きて人生を楽しんで下さい。」ということです。
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季節のことば 葉月(はづき) 耳にも口に出しても心地よい、美しくも優れた日本語である、月の和名シリーズの復活です。 旧暦の8月(新暦では9月頃で秋の最中)を葉月と呼びました。 “はづき”とは、“葉落ち月”を略したや、稲が熟し“穂張り月”がなまった等の説があります。 やはり農作物に関連しているようです。 稲穂が実って張る形を見ると心も豊かになりますから、田んぼの前を通る時には是非目を楽しませたいものです。 新暦の8月は夏ですから“山滴る”と表現される“瑞々しい緑の葉につつまれた夏の山”を連想しますが、秋の最中ならば若干ニュアンスが違うようですね。 |