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                                                          2009−7

平成21年7月号 第1145号

        

H.21. 7月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 (せい)(めい)(りん)() ―人の死とは― 1

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

脳死に伴う臓器移植(推進派と反対・慎重派)

・臓器移植法(平成9年7月16)

 以前この話題を上げたのは平成11年の4月号と6月号でした。

 その時は脳死・臓器移植という恐ろしげな題でした。

 それから10年以上()ちましたが、また最近脳死についての法律改正が議論されています。

 今回はそうした諸問題についての、政治や世相の流れ・日本の宗教界の考え方や本教の教えについて、もう一度振り返りご一緒に考えられればと思います。

 当時の法律から現在の日本は、@ドナーカードで本人の意思表示があり且つ家族の拒否がない場合、臓器提供が出来るとなっています。又A15歳未満の提供は許されていません。

・推進派からの再議論

現行法について臓器移植を推進する医師や患者、又その支援者を中心に見直しの動きが強くなっています。

 政治家も衆議院議長の河野洋平氏や、その子息の河野太郎衆議院議員等がその推進に取り組んでいます。

 推進派にとっての問題点は、現在の法律が施行されてから約12年で80数件という提供数にあるようです。

 この数は提供希望の待機者からすると絶望的な少数であり、多くは国外の渡航移植に頼るしかありません。

 しかしこの現状は渡航受け入れ国の移植待機者の機会を減らす等、諸問題が生じています。

受け入れ国の移植待機者にとって自国の臓器を日本人から横取りされる問題や、それに伴う人身売買です。

今年の世界保健機構(WHO)では、偶然にも豚インフルエンザの影響でこの問題の議題が(けず)られました

しかし近い将来ルール変更が決まれば、15未満の子どもの渡航移植が出来なくなる可能性があります。

海外での(はい)()の圧力もあり、日本のことは基本的に日本で解決すべきとなり、日本の臓器移植法を見直すべきとの議論になっているのです。

『風が吹けば(おけ)()(もう)かる』の論理のようです。

・推進派の主張(世界標準)

 現在見直し案はAからDまでありますが、先にあげた河野太郎衆議院議員は一番過激ともいえるA案です。

 それは、@本人に積極的な提供の意志がなくとも拒否の意志表示がなければ、家族の同意で臓器提供が出来る、とするものです。又A同じ条件で0歳からの提供も出来る、となります。

 推進派の人達は、『これが世界標準であり、日本はその標準からずれている』と主張するのです。

・反対派或いは慎重派の主張(脳死は死ではない)

 日本の宗教団体の大勢は、脳死に伴う臓器移植に反対、或いは慎重派です。

 脳死移植に反対をしない世界の宗教団体に対し、日本においては仏教やキリスト教であろうとも反対、或いは慎重派であるということは興味深いことです。

 反対或いは慎重の理由を一言で言えば『脳死は死ではない』と感じている事です。

・両派の比較

 両派ともきちんと議論して欲しいと主張し合いながら、互いに議論すべきと思う部分が違うようです。

 推進派に言わせると『古い固定観念から離れられず、患者の命の尊さを理解していない』となるのでしょう。

しかし反対・慎重派に言わせると『脳死を死と決めつけるのは、提供者の命の尊さを理解していない』となるのです。推進派は移植を待つ人の命の尊さ、反対・慎重派は提供する人の命の尊さを訴えているのです。

 

医学の進歩(脳死判定の見直し)

 最近の医学の進歩はめざましく、十年前の法律成立時(25年前の竹内基準)とは格段に違うとの事です。

 それは臓器移植の技術も進歩しているのでしょうが、脳死からの生還の可能性も進歩しているのです。

 臓器移植が可能な大病院で、一方の部屋では移植待機者とその技術を持った医師団が準備を整えて、悪く言えば事故者の死を待っている。

そしてもう一方の部屋では事故者と回復技術を持った医師団が必死で()(せい)に努力をしている、という矛盾を感じる事もあるそうです。

病気で亡くなった人の臓器は使えない場合が多く、移植が可能なのは30歳代までの交通事故に遭った人が大部分のようです。

 もう少し細かく言えば、二輪バイクでの若い事故者が最多と聞きました。

 現行法の脳死判定では現在復帰の可能性が出ている事から、10年前の基準では医学的に脳死とは言えない場合も出現しているのです。

推進派が臓器提供数の少なさや国際情勢から(あせ)り≠持つと、脳死の判定が甘くなるなど本末転倒になるとの指摘もあります。

医学の進歩事情に逆行し、生きる可能性のある人の命を(うば)危険性もあるからです。

移植法を見直す以前に、医学の進歩に伴う脳死判定の基準も見直すべき、ということになります。

 

日本宗教連盟(日宗連)の動き

脳死に伴う臓器移植に反対・慎重派の中心は日宗連と言って良いほど、理論面にも政策関与面にも勉強し活動もしています。

河野太郎(P120)氏へも面会して議論を交わしたことを、日宗連団体に属する教派神道連合会理事会(本教も理事参加)で聞きました。

前に述べたようにやはり議論が()み合わず、脳死を死と認められない理由を述べるのに対して、

「法的脳死判定を(個人は)拒否する事が出来るから強制ではない…」と話すのだそうです。

では15歳未満はその判断能力が年令によってはないものを、親族が判断するのは(ぎゃく)(たい)問題を含み危険ではないかに対して、

「虐待が疑われる場合は提供出来ないことになっているが、もしそれらが(まぎ)()んでいても、脳死で死んでいる事は間違いない」という(どう)(どう)(めぐ)りの内に面会時間が過ぎたという報告を聞きました。

 

民族性について(世界標準への反発)

 これも教派連での情報ですが、今年4月30日の産経新聞の正論に、大阪大学名誉教授の加地信幸氏の寄稿を読んで分かり安く感じました。

 加地氏はドナーを増やすには臓器提供先の遺族への開示や慰霊の必要を訴えるという推進派に近いながら、民族性への解説が明快です。

まず世界的に宗教の臓器移植への反発が少ない理由を次のようにあげています。

【世界的に代表的死生観は3種に集約出来る。

@キリスト教・ユダヤ教・イスラム教(一神教)は、人は神が土から造ったと教えるところから、遺体は元の土に帰るだけだから臓器提供しても神の意志に反しない。

 むしろ他者の為()に積極的にさえなり得る。

Aインド諸宗教(仏教含む)は、(りん)()(てん)(せい)をする魂こそが大切で肉体は夢・幻に過ぎないと考える事から、教義上は肉体に執着することはない。

 遺体は火にかけて散骨したり、風葬・鳥葬或いは川に流し、祖先は祀らず墓も作らず、まして臓器提供((いつくしみ)であり()()ともとれる)に抵抗はない。】

 次に日本人宗教者が(しゅう)()を越えて一致し、反対或いは慎重を主張する理由を次のように述べています。

【B日本は儒教の影響も受けながら祖先祭祀が中心であり、先祖と子孫との生命の連続を意識する。

祖先祭祀とは魂(霊魂)(はく)(墓の遺体)を合体させる物だから、体の欠損はその妨げになると考える。

これは近年までの土葬時代の感覚だが、何千年も続いてきた遺体観はそう簡単に変わるものではない。

だから日本には臓器提供者が少ないと言っています。

 ここで興味深いのは、国内の宗教は皆キリスト教であれ仏教であれ、その教えからでなく日本の習俗に従って判断している点です。

 ともあれ日本の宗教界では、民族性も考えずに世界標準で(くく)って押し切ろうとするのは乱暴な話であると主張しているのです。

 脳死を死と認めるかの死生観と臓器提供に伴う遺体観の二つをしっかりと議論する必要があります。

 

本教の教え(人の死とは)

 本教ではこの死生観遺体観をどう考え(とら)えてきたのでしょうか。

そして三つの民族性と死生観からの世界の流れ・日本の宗教界の動向・世論とどう向き合うかを考えねばなりません。

紙面も限られてきたので今回はここまでとし、次回にその結論をお示し出来ればと思います。

ブロック研修会でも、心臓等の重要臓器に続く角膜移植の是非などの質問もありました。

読者の皆様も是非ご一緒にお考え下さい。


 
季節のことば    入半夏生(はんげしょう) 
 
  
 24節気の夏至を更に3つに区分した、第3候(7月2〜6日頃)の初日です。昔は『半夏半作』と言って、この日までに田植えが終わらないと収穫が少ないとされました。
梅雨も終わりの頃ですが、『半夏のつゆ長』や『半夏のはげ上がり』という言葉をご存じですか?
農耕民族らしい天候の智恵とも言うべきものです。
半夏の日に雨が降ればその年は梅雨が長く、晴れならば後は晴天が続く。また『…はげ上がり』には、この頃大雨が降っても梅雨明けは近い・半夏の日は晴れる、という意味もあります。
今年はどちらか確かめてみれば楽しいですね。
ハンゲショウとはドクダミ科の植物で、この頃葉が表だけ白く半化粧するところから名付けられたようです。
また半夏とはサトイモ科のカラスビシャクのことで、この頃繁るので農作業の目安にされました。