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                                                          2009−4

平成21年4月号 第1142号

        

H.21. 4月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 普段の信仰とは ―祓いと徳積み―

 

(神理教を“本教(ほんきょう){=私たちの教え}”と記します)

(きん)(ちょう)()(かん)

幾ら強い(ゆみ)(つる)でも長期間張り続けると、切れてしまうそうです。

人の心も同じで精神的・体力的に強いと思われる人も長期間心や体を張り詰めると、精神が不安定になったり体調が崩れたりするものです。

何でも適度の(きん)(ちょう)()(かん)の調和が大切で、どちらかに(かたよ)ると心や体のバランスを失うものです。

先月、先々月と本気の信仰についてお話ししたのは緊張の部分ですが、二ヶ月も続いたのでさぞお疲れだと思います。

余りに緊張を()いてしまい、もう(おのず)(から)(みち)は目にするのも恐くて嫌だ、と気持ちが引いた方もおられるのではと申し訳なくも恐縮に思います。

 先月までは多くの人が信仰に入る時に経験する、いわゆる“()(こん)の信仰”の場合で、目の前に迫った問題がある時の一つの信仰形態です。

 今月は(ちゅう)(こん)(じょう)(こん)の信仰への道ともいえる、普段の信仰についてご案内します。

 とはいえ決して弛緩したものを紹介するわけではなく、緊急の願い事が無い時の『(あわ)てず(おこた)らず』の心掛けについてご一緒に学べればと思います。

 

信仰をどう(とら)えるか

 “信仰とは”については本誌の性格上、他の方の寄稿文でも色んな角度から語られています。

 この(おのず)(から)(みち)も表題は違っても、やはり色んな角度から語っています。

平成4年9月・10月号には『信仰とは?』があり続いて11月・12月号には『正しい信仰とは』を(けい)(さい)させて頂きました。そこでも紹介した辞書を(さい)(かつ)すると、『信仰=あるものを絶対視して信じ(たっと)ぶこと。その固く信じる心』とありますが、これは国語の答えであってここで私たちが求める答えではありません。

 ここで私たちが求めるものは、まず信仰をどう(とら)えるか、また信仰する目的を明確にして、信仰を生活の場にどう活かすかなのです。

 

故柳教正の言葉・信仰とは…

 筆者は最近信仰の捉え方で、とても分かり安く簡潔な言葉に出会いました。

それは一月に津山教会に伺った時に、前総代長の国府島さんが語られた故柳綾子教正との会話からでした。

まだお若かった頃、国府島さんが、「先生、信仰というのは何ですかぁ」と聞くのに、柳先生が即答して、「それはなぁ、自分の徳を(みが)ことじゃあ」と言われたというのです。

 人によって受け止め方は違うでしょうが、筆者にとってこれほど()に落ちる言葉は初めてでした。

 この言葉は本教の教えにも(かな)っていて、短い中にも深い味わいがあります。

 

自分の徳を(みが)

 自分の徳を磨くというのは、

@まず自分自身が(すが)(すが)しくなる事です。

 体や身なりもそうですが、何よりも心を清々しくすることです。心を清める方法はこれまで色んな形で何度も述べましたが、一言で言えば“祓い”です。

時折お話しする事ながら、神祖はいつも(ばく)(だい)な御神徳を下さっています。しかし受け取る側が(けが)れていては、ビニール袋を(かぶ)っているのを気付かずに水を飲もうとするようなものです。

穢れは神からの気が枯れるという意味で、まさに目は見えても目に見えない御神徳(神の気)が戴けません。

祓いの方法は、祭に伴う(しょ)()(手水・鈴・賽銭・祓い・等)に始まり七罪八徳の実践他、多数あります。

また心掛け(感謝・反省・奉仕{三原則})や行動({祈り}・神前奉仕・教えを学ぶ{三行動})他、様々です。

A次ぎに徳を積む事です。

 徳を積む方法も同じく既に述べてきたところですが、世の為・人の為また御先祖・家族・自分の為に善きことを為す・役立つ事ではないでしょうか。

Bそしてその徳を磨く(質を高める)事です。

 徳を磨く方法は日々の生活にある、と考えます。

 

普段の信仰(日々の生活)

・自分の徳を(みが)くのは()()(てき)(こう)()

ここで普段の信仰とはという本題に(つな)がるのです。

 過去には本教の教えに基づいた普段の信仰の在り方も、やはり本誌に掲載されて来ました。

 ここでは、それらも振り返りながらも、先ほどからの流れに添って進めます。

 即ち、普段日々の生活の中で無理なく自分の徳を磨く方法をご一緒にお考え願います。

 誤解のないようにお話しするのですが、自分の徳を磨く行為が、自分だけの為と思うのは間違いです。

利己的な目的のみを追いかける恥ずべき行為、等とは決して考えないで下さい。

自分の徳を磨く行為は同時に世に役立っている、という(みこと)(わり)をご理解下さい。

というのは自分の徳を磨く為には、先の文のAにあるように世の為・人の為・その他に役立つ事への行いが条件のようになっているからです。

 ならば安心して、更に加えて世に役立つ目的も加えながら自分の徳を磨く心持ちになりたいものです。

・祓い(霊殿と本院・教会)

 @では祓い(すが)(すが)の方法に()げましたが、日々毎日の生活の中では具体的に何が考えられるでしょうか。

 家の神棚・霊前に毎朝水を替え、清祓一本でも奏上して『我が心清々し』『(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(まも)(たま)(さきわ)(たま)え』『(うぶ)()(ねの)(かみ)守り給え幸い給え』(各三回)(とな)えることです。

 出来ればご家族もご一緒して声を合わせれば、二人ならば二倍・三人ならば三倍と罪穢れが祓われます。

 本院や教会に願って祓い串を頂かれ、祓い方を習って使われれば、より効果的です。

また、それだけの御神徳が大元の神である天在諸神と御先祖((くし)(みたま))である産須根神のから戴けるのです。

 3分も掛からず、同時に必要最低限であり充分に近い神の気(御神徳)も戴けます。

 これを行わないで御先祖を不安にさせるのと、毎日のご挨拶をしてその都度御神徳を戴くのでは、短い期日でも雲泥の差となるのです。

 また本院や教会の月次祭や教祖祭他の祭事には、月に一回でもお参りしてお祓いを受けましょう。

 その折りに本院・教会に(まつ)られる、より大きな御神徳のある天在諸神と御先祖の(ほん)(こん)である(さき)(みたま)にお参りすれば一層の神の気(御神徳)が戴けます。

 他にも葬儀には必ず塩を使う(信仰の文化)等、数多く祓いの方法はありながら、まず普段の信仰という意味ではこれで充分だといえます。

 祓いが普段から出来ているということは、心清々しく人にも()かれ、教会や神社に行けば神にも(この)まれ望まずとも(おのず)(から)神の気が戴けるのです。

・善きことを為す・役立つ(誠意・奉仕)

Aでは善きことを為す・役立つ徳積みの方法に()げましたが、日々毎日の生活の中では具体的に何が考えられるでしょうか。

 世の為・人の為また御先祖・家族・自分に善きことを為す・役立つ為に、日々の生活で何が出来るでしょうか。

 仕事でも私的な付き合いでも、誠意を持って相手と交渉したり話し合うのは、信頼という変えがたいものを得る為にも大切な心持ちです。

 は今年の1月号にも詳しく述べていますが、本教の表看板となる教えの言葉でもあります。

 智恵のある人は(くし)(みたま)の働きが活発な人だとの教えがありますが、良いことばかりではありません。

 損得計算が速いと自分でも気付かぬうちに一方的な得をし、それが法的には不正で無くとも道義面では裏切りとなり、後で(うら)みを買うこともあるのです。

 金品で得をするより、信頼等心の通い合いで得をする方が、最終的には金品でも得をするものです。

 良い例が御教祖で、相手の得を先に考えての生活が徹底しておられたにも関わらず、帰幽後百年を越えても子孫のみでなく大勢の皆さんに、しかも毎月お祭りして頂くのですから大変な幸せです。

 生活の中で常に誠意を持って、人と接するのは毎日の善きことを為すとなります。

 また本院や教会の清掃奉仕等は祓いと共に大きな徳積みであり、社会奉仕も普段の祓いを行っている人にはこれも大切な徳積みとなります。

 ()(さき)()(えき)(クボサ)にあくせくするより、天津御空に蔵を建てるという大きな気持ちになりたいものです。

 徳積みが普段から出来ているということは、心が大らかで人に信頼され、神にも信頼されることから善い運勢が得られるのです。

 皆様、互いに大いに励み上根の信仰に進みましょう。


季節のことば   卯  月

キサラギ<сイ≠ノ続きウズキ≠ニ、耳にも口に出しても心地よい美しい言葉路線の一年となりそうです。
卯月も旧暦四月の呼び方ですが、今でも通用しています。
一説にウヅキとは、ウツギの花(卯の花)の咲く月の意味です。
空木はユキノシタ科の落葉低木で幹が中空(空洞)なために、空(=空っぽ)の木、というのがそのまま名前となったようです。
卯の花と言えば唱歌に懐かしい“夏は来ぬ”があります。
歌詞の一番だけでも、日本文化の素晴らしさが感じられます。
『卯の花の匂う垣根に、時鳥早も来鳴きて、忍音もらす、夏は来ぬ』、花の色(視覚)匂い(臭覚)忍音(聴覚)に加え夏に季節を移す気温の変化や食べ物を連想し、五感が刺激されます。
もう一説に、農作物の種を植える月≠フ意味もあります。
何れも夏に向けて命が萌える美しさや喜び、自然の恩恵への願いや感謝が感じられます。