背景色が選べます!


                                                          2009−3

平成21年3月号 第1141号

        

H.21. 3月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 (おし)えの(たと)え話 ―(ざる)の話―

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

 

本教(古神道)()()(こう)((さん)(がく)(しん)(こう))

・共通点(強い信念と真の目的)

先月は本気の祈りの大切さやその為の心構えについて、()()(こう)(山岳信仰)の行者である(じき)(ぎょう)()(ろく)の、信者に対しての手厳しい言葉を(いん)(よう)してお伝えしました。

祈り願うからには(にゅう)(じょう)((そく)(しん)(じょう)(ぶつ))する位の決意や、必ず(かな)うという信念が必要ということでは共通点があると述べました。

私たち現代人は、先月の話で()(ろく)に怒られた信徒に比べても、祈る力以前の祈ろうとする意欲が余りにも少なさ過ぎるのではないでしょうか。

その怒られた信徒でさえ、多分今の東京から富士山まで、何日か(つい)やし歩いて参って来ての話です。

当時はこれだけの(とく)(しん)()さえ信心が薄いと(しか)られることに比べれば、現代人はなんと身体や心を使おうとする意欲が(ひん)(じゃく)なのかと思いやられます。

不況とはいえ、まだまだ消費文化に甘え、物やお金に頼り過ぎではないでしょうか。

私たち現代(ほん)(きょう)(じん)は、住居は立派になりある程度(ゆた)かな生活をしても、精神的には(おさ)(とぼ)しい集団になり下がってはないでしょうか。

それでは昨年1月号でお伝えした『猿の惑星』の住人のようになり、先人の力で出来た立派な境内や神殿もやがて宗教()(せき)(はい)(きょ)に過ぎなくなってしまいます。

本院や教会で教師にお任せして一緒に祈っても、後はたいした祈りも努力もせずに、

「やはり()かなかった」では、信仰の目的さえ理解出来ていません。

 懸命に祈り願う中で、祈る事自体が心身の健康となり、祖先と家族と自分の霊魂の清浄を行っている事に気付くことです。

またこれらが引いては社会浄化の基点として役立ち、同時にその喜びに気付く事が真の目的なのです。

御先祖はそこに気付いて欲しい、本来の信仰をして欲しいと病気災難を下さる、とも考えられます。

本教もその位の信念を持つ人が多く、目的に気付く人が多かったからこそ、二百万人を越える独立嘆願の署名が集まるほど教勢が盛んであったのでしょう。

だからこそ、そうした人々が集まる本教は、御神徳も今より高かったことでしょう。

この点は富士講も(じき)(ぎょう)()(ろく)派の六代(にゅう)(じょう)()の繁栄も同じ理由のように思います。

(そう)()(てん)((にゅう)(じょう)()()(にく)(しょく)(さい)(たい))

しかし本教では、教義に(にゅう)(じょう)(即身成仏)等ありませんし許されてもいません。

また神職であろうとも日常生活に酒や肉等、飲食の(きん)()(()むべきものとして禁じること・タブー)はありません。

そして(さい)(たい)(結婚)は人として当然行うべき事とされ、どちらかといえば義務であり、この点本来は禁忌であるが現実に合わせる等の宗教団体とは違います。

例外として神事の前に(にお)いの強い食べ物や、精神的な平常心を乱す意味での争い事や金品を()けた囲碁将棋や性行為等を避ける位です。

食欲は肉体を健全に保つ為に・性欲は子孫の繁栄の為に神から与えられたもので、決して悪や(ぼん)(のう)(()(わずら)わせ(なや)ます(もう)(ねん))とは(とら)えないのです。

 それは例えば死に伴う悲しさや苦しさも神から与えられた感情で、死自体を(つみ)(けが)れと捉えないのと同じです。

 死に(ともな)っての罪・穢れに()まるというのは、例えば死に()(せい)する悲しさや苦しさから逃れられずに、自身の心が()ざされ生きる意欲を失うことを言うのです。

 先月紹介させて頂いた小説で、(じき)(ぎょう)()(ろく)と世話をする(じゅう)(ろう)()()()との会話(引用)で、

【…「不浄なにおいがするぞ、近よるでない。」

十郎右衛門ははっと気がついた。食べ物のにおいだろうと思った。前夜食べた魚肉のにおいを身禄は()ぎつけたのだと思った。

それからは十郎右衛門も、(かゆ)以外は口にしなかった。…】とありましたが、この点、本教と富士講とは似ているようで違います。

 この場合の()(じょう)について、本教()(たま)(ねぎ)(にん)(にく)(にら)など(にお)いの強いものを指し、富士講は食べ物自体の(かお)りを指しているようです。

(たま)(ねぎ)(にん)(にく)(にら)匂いの強い物、また見た目に異様に(うつ)る物について=ではお供えはしてはいけないかについての説明。

 神へのお供えは(しん)(せん)と呼ぶがお供えの仕方は、普段行う(せい)(せん)と少し特殊な場合に行う(じゅく)(せん)がある。

 ここにあげられた匂いの強いものや、また人によっては異様に映る(たこ)等については熟餞でお供えし、匂いを除き形を整えるのである。

 

本教の例え話・(ざる)の話

先月は本気という点を刺激と共に強調したく富士講の行者の例をあげましたが、本教ではどうした話を持ってくるものでしょうか。

少し視点は違うものの、本教での本気の話の例え話としては『(ざる)の話』があります。

 本教では余りにも言い古された話である為に、筆者もこの自然の道で何度も使ったのではと、平成3年に(さかのぼ)って調べましたが一度もありませんでした。

 読者の皆様は、この例え話をご存じでしょうか。

本教の先人達が口が()っぱくなるくらい話し、その後輩達は耳に()()が出来るくらい聞き、またその後輩に同じように繰り返し語り伝えた話です。

 また是非覚えて語り継いで頂ければと思います。

 今からの話は筆者が覚えている話ですから、もし違った風に聞き覚えている方は教えて下さい。

【御教祖が熊本に布教に行かれた折りに日が暮れて、通りがかりのとある家に宿を取られた時のことです。

夕食の後くらいでしょうか、世間話を交わす内に教祖を宗教者と知った主人がそれではと聞くのに、

「自分で言うのも何ですが、私は信心深い人間だと思います。皆がする神さま事や仏事には参加しますし、あちらこちらの神社仏閣に参拝もします。

 よく効くお(ふだ)があると聞けば必ず行って求めるし、御利益のある神社があればお祓いを受けるし、徳のあるお坊さんがいれば説教を聞きに行きます。

 けれども一向に幸せを得ることはなく、自分自身を含む家族や周囲には病気や災難や不運ばかり続きますが何故でしょう?」と不満を口にします。

 御教祖は家の人に(ざる)があるかを尋ね、(たらい)に水を一杯にして一緒に皆の前に置いて問いかけます。

「この笊を水で満たすことが出来ますか?」

 家の人達は(ためし)に笊で水を(すく)ってみるのですが、当然のことながら笊で水を掬うことなど出来ません。

 そこで御教祖は笊を受け取って、盥にザブリと沈めて皆を見て言います。

「ほら、こうすると笊を水で満たすことが出来ます。」

 コロンブスの卵の話(卵の細い方の頂点で立てる方法{頂点を(つぶ)す}を通して、新しい発想と行動が栄光や富を生むことを伝える話)の様なものです。

 御教祖はこの種明かしをされた後、何故そんなことをするのか意味が分からない家の人達に語りかけます。

「信仰も笊を水で満たすのと同じ要領なのです。

 笊であちらこちらの(たらい)から水を汲もうとしても汲めないように、信仰もあちらこちらからいいとこ取りをしようとしても、幸せを得ることは出来ません。

笊で水が汲めないように、あちらこちらのふらふら信仰では、幾ら素晴らしい教えでもその御神徳は汲むことが出来ないものです。

笊を盥にどっぷりと()かすように、信仰も一つ信頼出来るものを定めたら、それだけを一心に信仰するものです。」とお伝えしました。】

その家の人達はそうしたお話しをする御教祖の人柄に()(りょう)され、それではと本教の教義を聞かれ、その日の内に本教の教徒となった(帰教)と伝わっています。

 当時は江戸幕府から(てら)(しょう)(せい)()を強制された名残で、日本人のほとんどは仏教徒でしたから、今と違って改宗(本教では()(きょう)という)は大変な決断でした。

 それでも帰教(=本来の教えに帰る)までされるというのは、御教祖の人柄や教義の確かさもさることながら、この例え話の印象がよほど強かったからでしょう。

 

言葉でのお取り次ぎ・(かた)()

 もしかしたら他の教団でも使われているかも知れませんが、本教には(でん)(しょう)(むかし)(ばなし)のようにこうした例え話が幾つか伝わっています。

(もう)(じん)が象を触る話≠竍木やダムを例えにした神と先祖と私と子孫の話%凾ナ、こうした話は何度でも繰り返しを楽しむ大切な宗教文化でもあります。

 年を取ると何度も同じ話をしたり聞いたりして子どもに「十回目!」等と注意されますが、大切な話だから何度もする・聞くということでもあるのです。

 是非一つでも覚えられて、教えの語り部となられ神と祖先の信仰の文化を共に大切に守り継ぎましょう。



季節のことば  弥 生



”キサラギ≠ノ続いての”ヤヨイ=Aこれも耳にも口に出しても心地よい言葉です。
最近、日本文化は中国の亜流(独創性が無く劣っている)ではなく世界でも特異で優れている、と言われ出しましたが、こうした美しい言葉を使っていることに気付くと納得できます。
弥生は旧暦の三月の呼び方ですが、今でも『弥生3月』など使います。
ヤヨイとは、草木がいよいよ生い茂る月という意味だそうです。
先月号で、如月は芽が出てくる意味もあり寒中の生命活動に元気をもらうお話をしましたが、弥生はそれよりもっと出るということですね。
それならば先月芽を見て戴いた元気を、今月はもっと出して世に役立とうという気持ちになりたいものです。