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                                                          2009−2

平成21年2月号 第1140号

        

H.21. 2月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 霊魂の(あん)(てい)  ― (れい)(かく)(こう)(じょう) ―

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

 

本教の基本理念とは

先月は本教の表・(けん)((よう))の基本理念である、(まこと)(さとり)り(真の安心)のお話しをさせて頂きました。

基本理念というのは本教の教えを簡易な言葉にまとめたものです。

この言葉を目標としこの言葉の達成が出来るように心掛ければ、必ず御神徳が戴けるというものです。

それは決して難行苦行をしないと得られないようなものではなく、日常のちょっとした生活習慣であり心の持ち方です。

およそ信仰とは難しい教学を覚えたり難行苦行をしたりするという、真似を出来る人が少ないような物ではありません。またそうした宗教学者や行者にお金を払えば救われる物でもありません。

この辺りの勘違いから怪しげな宗教が暗躍し、無関心とももつれ合って宗教離れとなっていることは、残念というより人類にとっての大きな損失です。

世界・日本・家庭・個人での祈りの時間の減少に、筆者は人類の危機を感じます。

宗教家に頼る部分もありながら、生活習慣や心の持ち方は自分で応用して行うことが基本です。

大多数の人が日常の生活をしながらでも学べるし行える、という信仰でなければ本物ではありません。

教会長や教師や先輩教信徒は、その気付き(悟り)の補助者です。その共通の指針が本教の基本理念なのです。

 

霊魂とは何か、その教えをどう活かすか

・四魂

先月は(けん)(ゆう)(よう)(いん)・表と裏の関係を説くと共に、それぞれの一対は一貫したものであると共に一体であることをお伝えしました。

今月は本教の裏・(いん)((ゆう))の基本理念である、霊魂の安定(霊格の向上)のお話しをさせて頂きたいと思います。

 霊格の向上については前平成20年2月号に、霊魂の安定を(はか)ること等書いているので(ちょう)(ふく)を避けます。

四徳()から成るように(れい)(こん)()(こん)((さき)(みたま)和魂(にご)(あら)(みたま)(くし)(みたま))から成ると考えます。

四魂についても、平成3年12月号〜4年2月号やはじめての神理教%凾フ教書に記しているので避けます。

・心の故郷と霊魂の故郷

 しかし一つ述べておきたいのは四魂論を通じての、本教の世界・日本での心と霊魂の位置についてです。

 伊勢神宮は日本人の『心の(ふる)(さと)』と言われますが、筆者は日本人というより世界の心の故郷だと思います。

 それは(うぶ)()()であり(うぶ)()()((すな))であるという、世界の血縁・地縁の大元である(うぶ)()()(おお)(かみ)即ち(にご)(みたま)の故郷=象徴だからです。

 本教は世界・日本の『霊魂の故郷』と言えます。

 人間の魂の元である(さき)(みたま)は死後は大元の神の国である()(わか)(みや)≠ノ戻ります。

 その日の若宮はどこかというと(てん)(ざい)(しょ)(じん)(しず)まる(ところ)(すなわ)ち神理教本院ということになります。

 (あら)(みたま)(おく)()()(お墓)に鎮まり子孫に生きる意欲を与え、(くし)(みたま)は家の(れい)殿(でん)(神棚)に鎮まり夢を通じて子孫に()()を与えるのです。

 私たちは、それぞれの鎮まりどころにその役割を意識してお参りすれば安心です。

 

本気の祈り

 最近読んだ『富士に死す』(新田次郎作・文春文庫)()()(こう)(山岳信仰)の行者((じき)(ぎょう)()(ろく))の話(引用)に、

【…「()(ろく)(さま)にひとつお(うかが)いしたいことがございます。

 私はさっぱり()(だね)がさずかりません。それで富士講に入ってお参りにやってきたのですが、そのご()(やく)はあるでしょうか」と問うた者があった。

身禄は立ちどころに答えた。

「ないな、お前さんがそのようなことを()くのは、はじめっから浅間大菩薩を信じていないからだ。

 信じていない者には利益はない」

あまりにも冷たすぎる答えだった。…】とありました。

 本教では富士講のような激しい修行や、ましてや(にゅう)(じょう)((そく)(しん)(じょう)(ぶつ))というようなことはしませんが、この会話には共鳴します。

 欲しいものが(さず)かるか授からないか、病気が(なお)るか治らないかということ等一旦忘れて、一心に祈る心から御神徳が戴けることを信じることが出来なければ何も始まりません。

 私たちは日頃の信仰はしなくても、つい今からでも祈れば(祈ってもらえば)治るか、等考えてしまいがちです。そうではなく、(きょく)(たん)に言えば治らなくとも安心(=霊魂・四魂{精神}の安定)が得られる、という境地に達するくらい祈りに(ぼっ)(とう)することです。

 (げん)()()(えき)というものは、その境地に至ってから戴けることもよくあることです。

 (にゅう)(じょう)は本教では行いませんが、祈りにそのくらいの本気・気迫を出すべきことは、そうした他宗とも違いはありません。違うのは激しい修行者やその宗教にお金を出して救って貰おうとするのではなく、及ばずとも自分がその本気を出そうとするところです。

 そこに不可思議な神の救いがあることに気付き(悟り)たいものです。繰り返しますが、教会長や教師や先輩教信徒は、その気付きの補助者なのです。

また日頃の信仰をしている人が集まる教会程、(いち)(げん)客の多い教会と違い不思議は多いものです。

 

(つい)()(てん)(ぞう)(おしえ)と今()す事1

神理入門第三十五に、

(たん)()(したた)るが(ごと)しと(いえども)も、(つい)()(てん)(ぞう)(おしえ)

(はく)(せつ)()むが(ごと)しと(いえども)も、(たちまち)()(じん)(ぞう)(おしえ)。』

があります。(てん)(ぞう)(おしえ)であり世界随一の教えと御神徳を戴ける本教は、必ず世界中から理解され(しん)(とう)()(きゅう)される時が来ると信じます。

 その時の(ため)に、本教として今()すことは何か、そして私たち教信徒が今為すことは何でしょうか。

 本教として決して(あわ)てることはありませんし、何かの大きな事業を行う必要もないと考えます。

 こうした無信仰の世の中になりながらも真の宗教を求める機運は必ず来るので、その時を見落とさないように準備を整えることです。

 その準備とは教書を読みやすく整理し、本院や教会の大祭や研修会を通じて生活に活用できるよう伝える機会を多く持つことです。

 また神道の教義を原点として(こう)(はい)を感じる教育や、老後も信仰が続けられ人間性が尊重される見本としての施設の準備等も考えられます。

 

()す事2

 教信徒としては、教会長・教師とも一丸となっての、祓いと祈りの時間を増やすことが大切と考えます。

 普段からそうした徳を積み重ねている私たちが大祭や(つき)(なみ)(さい)等に集まることで、また御神徳を戴く(そう)(じょう)(こう)()となるのです。

 先ほどの小説によると、(じき)(ぎょう)()(ろく)は二つに分かれた富士講の六代目で、その先代から(ほとん)ど信者がなく教えを守る立場を取り、激しい修行を行いました。

もう一方の富士講は修行もしながら教えを開く立場を取り、多くの信者がいて裕福でした。

 しかし(きょう)()18(1733)年に(じき)(ぎょう)()(ろく)が入定と共にその約1ヶ月の間に限って教えを伝えたことを契機に、その二つの富士講の勢力は逆転したそうです。

 筆者はその逆転して一方が栄えた原因は入定という行為に皆が感動したからだけではないと思うのです。

 感動して自分たちも一心に祈るという境地に進んだ信者が多かったからだと考えます。

 それは本教にも言えることです。

 本教が明治27(1894)年に200万人を越える成人男女の署名を集めて独立を為した原動力は何なのでしょうか。

当時の人口は4000万位だったでしょうし、今より子だくさんの状態を考慮すると、当時の国内世帯数の1割以上ではないかと推測します。

その原動力は、やはり熱心に祈る教信徒の比率が高かったことにあると確信します。

そうした状態が先ほども述べましたが、祈りの場である本院や教会で戴ける御神徳を高め、また参拝も増え人材も豊富になったのだと思います。

これはどの教団・教会にも共通する発展の()(けつ)だと思いますが、本教にはどの教団にもない教義と御神徳があることは大きな違いです。

決して教団が大きくなることが目的ではありませんが、私たちの祈りの場がそうした効果を生むほどに質を高められるよう、共に精を出しましょう。

6月12月の大祓を始め、本院や教会そして家庭の神前でご家族と共に祈る時間を増やしましょう。

 これが継続されることで、必ずや本教を信奉する皆様の霊魂の安定(霊格の向上)となり、子孫を見守り世に役立つという人として最高の喜びを得ることになるのです。


季節のことば  如 月

 一年で一番昼の時間が短い”冬至≠ヘ昨年の十二月二十一日でしたが、一番気温の低い月は今月です。
如月とは奈良時代から使われていた言葉で日本書紀にも載っていますが、旧暦の二月の事で今の暦でも通用しています。
”キサラギ=A耳にも口に出しても心地よい言葉です。
 意味は一般的に寒いから衣更着(着物を更に重ねて着る頃)、というのがよく聞かれます。
 もう一つは春が近づき、クミ(芽)がサラ(そろそろ出てくる)という、クミサラ月がキサラギに変化したとの説です。
 この説も棄てがたく思います。実際に木の芽は年末から出ているものの、こんなに寒い季節に気がつくのは驚きだし何故か勇気が湧いてきます。
 寒い=元気が低下する思いの時、自然が生きる力を貯めていることを見て、よし!私も自然に見習い元気を出そうという気持ちになりたいものです。