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2009−2
H.21.
2月号 霊魂の (神理教を“ 本教の基本理念とは 先月は本教の表・ 基本理念というのは本教の教えを簡易な言葉にまとめたものです。 この言葉を目標としこの言葉の達成が出来るように心掛ければ、必ず御神徳が戴けるというものです。 それは決して難行苦行をしないと得られないようなものではなく、日常のちょっとした生活習慣であり心の持ち方です。 およそ信仰とは難しい教学を覚えたり難行苦行をしたりするという、真似を出来る人が少ないような物ではありません。またそうした宗教学者や行者にお金を払えば救われる物でもありません。 この辺りの勘違いから怪しげな宗教が暗躍し、無関心とももつれ合って宗教離れとなっていることは、残念というより人類にとっての大きな損失です。 世界・日本・家庭・個人での祈りの時間の減少に、筆者は人類の危機を感じます。 宗教家に頼る部分もありながら、生活習慣や心の持ち方は自分で応用して行うことが基本です。 大多数の人が日常の生活をしながらでも学べるし行える、という信仰でなければ本物ではありません。 教会長や教師や先輩教信徒は、その気付き(悟り)の補助者です。その共通の指針が本教の基本理念なのです。 霊魂とは何か、その教えをどう活かすか ・四魂 先月は 今月は本教の裏・ 霊格の向上については前平成20年2月号に、霊魂の安定を 誠が四徳(清・明・正・直)から成るように 四魂についても、平成3年12月号〜4年2月号やはじめての神理教%凾フ教書に記しているので避けます。 ・心の故郷と霊魂の故郷 しかし一つ述べておきたいのは四魂論を通じての、本教の世界・日本での心と霊魂の位置についてです。 伊勢神宮は日本人の『心の それは 本教は世界・日本の『霊魂の故郷』と言えます。 人間の魂の元である その日の若宮はどこかというと 私たちは、それぞれの鎮まりどころにその役割を意識してお参りすれば安心です。 本気の祈り 最近読んだ『富士に死す』(新田次郎作・文春文庫)の 【…「 私はさっぱり 身禄は立ちどころに答えた。 「ないな、お前さんがそのようなことを 信じていない者には利益はない」 あまりにも冷たすぎる答えだった。…】とありました。 本教では富士講のような激しい修行や、ましてや 欲しいものが 私たちは日頃の信仰はしなくても、つい今からでも祈れば(祈ってもらえば)治るか、等考えてしまいがちです。そうではなく、 そこに不可思議な神の救いがあることに気付き(悟り)たいものです。繰り返しますが、教会長や教師や先輩教信徒は、その気付きの補助者なのです。 また日頃の信仰をしている人が集まる教会程、 神理入門第三十五に、 『 があります。 その時の 本教として決して こうした無信仰の世の中になりながらも真の宗教を求める機運は必ず来るので、その時を見落とさないように準備を整えることです。 その準備とは教書を読みやすく整理し、本院や教会の大祭や研修会を通じて生活に活用できるよう伝える機会を多く持つことです。 また神道の教義を原点として 今 教信徒としては、教会長・教師とも一丸となっての、祓いと祈りの時間を増やすことが大切と考えます。 普段からそうした徳を積み重ねている私たちが大祭や 先ほどの小説によると、 もう一方の富士講は修行もしながら教えを開く立場を取り、多くの信者がいて裕福でした。 しかし 筆者はその逆転して一方が栄えた原因は入定という行為に皆が感動したからだけではないと思うのです。 感動して自分たちも一心に祈るという境地に進んだ信者が多かったからだと考えます。 それは本教にも言えることです。 本教が明治27(1894)年に200万人を越える成人男女の署名を集めて独立を為した原動力は何なのでしょうか。 当時の人口は4000万位だったでしょうし、今より子だくさんの状態を考慮すると、当時の国内世帯数の1割以上ではないかと推測します。 その原動力は、やはり熱心に祈る教信徒の比率が高かったことにあると確信します。 そうした状態が先ほども述べましたが、祈りの場である本院や教会で戴ける御神徳を高め、また参拝も増え人材も豊富になったのだと思います。 これはどの教団・教会にも共通する発展の 決して教団が大きくなることが目的ではありませんが、私たちの祈りの場がそうした効果を生むほどに質を高められるよう、共に精を出しましょう。 6月12月の大祓を始め、本院や教会そして家庭の神前でご家族と共に祈る時間を増やしましょう。 これが継続されることで、必ずや本教を信奉する皆様の霊魂の安定(霊格の向上)となり、子孫を見守り世に役立つという人として最高の喜びを得ることになるのです。 |
季節のことば 如 月 一年で一番昼の時間が短い”冬至≠ヘ昨年の十二月二十一日でしたが、一番気温の低い月は今月です。 如月とは奈良時代から使われていた言葉で日本書紀にも載っていますが、旧暦の二月の事で今の暦でも通用しています。 ”キサラギ=A耳にも口に出しても心地よい言葉です。 意味は一般的に寒いから衣更着(着物を更に重ねて着る頃)、というのがよく聞かれます。 もう一つは春が近づき、クミ(芽)がサラ(そろそろ出てくる)という、クミサラ月がキサラギに変化したとの説です。 この説も棄てがたく思います。実際に木の芽は年末から出ているものの、こんなに寒い季節に気がつくのは驚きだし何故か勇気が湧いてきます。 寒い=元気が低下する思いの時、自然が生きる力を貯めていることを見て、よし!私も自然に見習い元気を出そうという気持ちになりたいものです。 |