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2009−12
H.21.
12月号 家・自分が決める ー信仰の主体― (神理教を“ 近頃の若者( この原稿を書いているのは、プロ野球のドラフト会議(=日本のプロ野球において、新人選手獲得のために行われる会議)の直前です。 『近頃の若い者は…』等と話になる時は、どちらかと言えば批判的に論じる場合が多いようです。 しかし昨日のニュースを見ていてしっかりしている≠ニいう印象が持てる発言が聞かれました。 それも一人ではないところに、『今の世の中もそう捨てたものではない』と思わせられました。 我が家にも『サッカーと勉強に追いまくられ、本を読み けれども、もっとスポーツばかりであろうドラフト会議に臨む高校3年生が発した言葉を聞いて、『スポーツも 自分の言葉として発言する子ども達に、 もし監督や親など大人から聞いたものとしても、自分の言葉に出来ればよいと思うのです。 ユニホームで野球をするのではない 菊池雄星という甲子園で大活躍した高校3年生は、 「希望球団?…全くないです。どの球団でも投げることは同じ。ユニホームで野球をするわけではないし、投げるのは自分なので」ということでした。 この考え方は日本のバブル経済やそれが 筆者は自分の考えで決める=E自分の価値観を大切にする≠ニいう、近年の日本人が忘れがちの人生観を 人は神の子 昨今の日本は信仰の文化≠熈祓いの習慣≠燒Yれ去られ、 人は神の子であり神の 『神はあきらめることはあっても見捨てることはない』と言われますが、私達もこの世を悲観することなく、 こうした純粋な感覚を育んで行くのは道徳だけでなく、その 教師と 【神理教の教師になるには、 この改祭(=改宗・改教)を本教では『日本人・人間本来の教えに帰る』という意味で『帰教』と呼びます。 筆者は次のようにお応えしました。 【神理教の教師になると、免許状等と共に” 神理教の教えが本当に理解出来れば、帰教へ心が動くのは自然だと思われますが、絶対の必要条件とはしていません。 各人の事情を 逆にいくらご本人がそうしたいと言われても、特にご両親を説得出来ないままに改祭(宗旨を改める)することは、お お心の底に、そうした事(本当の信仰のあり方)を踏まえておいて頂きたい、ということです。 現実にも本教の教師が皆神理教の教徒≠ニいうことではありません。宗旨は別でも せめて信徒∴ネ上であれば、とりあえず認可されています。 宗教団体の名前で信仰をするのではない 昨日ドラフト指名を待つ高校生が、 「ユニホームで野球をするのでなく、投げるのは自分」というふうに言っていました。信仰も、 「宗教団体の名前で信仰をするのではなく、行うのは自分である」と思います。 日本の仏教徒の場合、ご先祖が自分で仏教を選んだのではなく、江戸時代の 帰教の場合のご先祖への報告祭の手順等ありますが、教師を希望されるにあたっても決して 応答の後半の部分が今回の主題です。 火葬場葬 先ほども触れたように、現代社会はまず信仰への興味やその文化が失われつつありますが、葬儀ぐらいは宗教団体に頼るということのようです。 江戸期以前の葬儀は、信仰の文化を保ちつつ、大方の葬儀は家主が行うものであったようですから、前後がそれぞれ逆転した 近年は葬儀を宗教団体に頼る習慣だけは残っているようですが、それも将来に渡り安定しているかは分かりません。 最近は火葬場葬≠ニいうものが増え、火葬式に葬儀を兼ねて簡易に行い、場合によってはお それは既成宗教や葬儀場の葬儀単価の高額化や、いわゆる貧困層の増加にも関連するようです。 お墓も要らず安上がりで時間も掛からないということで、良いことずくめに感じられるのでしょうか。 お墓とお骨≠ノついての教義がない宗教に、こうした流れを食い止めるのは難しいのかもしれません。 本教は小さな教団ですから社会への影響力は少ないでしょうが、お墓≠ヘ お こうしたところを 家・自分で決める 江戸期以前の民衆のほとんどが葬儀式も自分たちの生活の一部であると認識していたことは、歴史や生活様式を調べると容易に分かることでしょう。 現代の葬儀を宗教に頼る人は、頭から葬儀は宗教者が行うものであり、葬儀式は自分たちの普段の生活から切り離された行為だと思い込んでいるようです。 何故思い込むようになったか。 少しここに踏み込んで振り返ると、何事においても人間本来の自主の気構えが生まれてきます。 日本人は江戸幕府の巧妙な皇室との それを取り祓い家・自分で決める力を |
季節のことば 師走(しわす) 美しくも優れた日本語である、月の和名シリーズです。 弟子が師の家を走り回る(諸先生への挨拶回り)ことだ、という説があるように"忙しい!≠ニ身構える季節のように感じます。 師とは僧侶でそれらが走り回るほど忙しいという説と、実は師とは本来伊勢神宮や各地崇敬社の御師(神宮大麻や神札を配る祈祷師)でそれらが各家庭を巡る月という意味があります。 江戸中期の『日本歳時記』には『四極月』とあり、四時(=四季=一年)が極まる(=押し詰まる)月とあります。 また一年の総仕舞いの『仕極月』の説もあります。 異名も『極月(ごくづき)・限月・暮来月・暮歳・晩冬・黄冬・親子月・弟月・建丑月・氷月・臘月・春待月』等あります。 "忙中閑あり≠ナ時間を見付け・或いは作り、これらの字の意味でも考えながら、弛むひと時も大切にしましょう。 |