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                                                          2009−12

平成21年12月号 第1150号

        

H.21. 12月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 家・自分が決める ー信仰の主体―

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

近頃の若者(()てたものではない)

この原稿を書いているのは、プロ野球のドラフト会議(=日本のプロ野球において、新人選手獲得のために行われる会議)の直前です。

『近頃の若い者は…』等と話になる時は、どちらかと言えば批判的に論じる場合が多いようです。

しかし昨日のニュースを見ていてしっかりしている≠ニいう印象が持てる発言が聞かれました。

 それも一人ではないところに、『今の世の中もそう捨てたものではない』と思わせられました。

 我が家にも『サッカーと勉強に追いまくられ、本を読み()(せい)する時間もなくて、人間として育つのだろうか』と心配に思う子どもがいます。

 けれども、もっとスポーツばかりであろうドラフト会議に臨む高校3年生が発した言葉を聞いて、『スポーツも()てたものではない』と見直したものです。

 自分の言葉として発言する子ども達に、(けん)(めい)に行ったスポーツには人を育てる力があるのかな、と嬉しくも頼もしく、少し安心感も持てました。

 もし監督や親など大人から聞いたものとしても、自分の言葉に出来ればよいと思うのです。

 

ユニホームで野球をするのではない

 菊池雄星という甲子園で大活躍した高校3年生は、

「希望球団?…全くないです。どの球団でも投げることは同じ。ユニホームで野球をするわけではないし、投げるのは自分なので」ということでした。

この考え方は日本のバブル経済やそれが()(たん)した後も、名門球団とか契約金という名誉や金銭への欲得を重視するものとは(いっ)(せん)(かく)すものだと言えます。

(いさぎよ)さ≠ニいう日本人本来の心情を(よみがえ)らせたような(こころよ)さを感じる言葉でもあります。

筆者は自分の考えで決める=E自分の価値観を大切にする≠ニいう、近年の日本人が忘れがちの人生観を(かん)()したことに(かっ)(さい)(しょう)(どう)(おぼ)えました

 

人は神の子

 昨今の日本は信仰の文化≠熈祓いの習慣≠燒Yれ去られ、(じん)(しん)(こう)(はい)(いちじる)しく感じられますが、若い世代にはこうした純粋な感覚が()()いているのです。

 人は神の子であり神の(ぶん)(れい)を戴いた存在ですから、思えばそうした()()えは当然のことです。

『神はあきらめることはあっても見捨てることはない』と言われますが、私達もこの世を悲観することなく、(わこ)(うど)の純粋な感覚を大切に(はぐく)んで行きたいものです。

 こうした純粋な感覚を育んで行くのは道徳だけでなく、その(こん)(かん)をなす人間が本来の受け継いできた正しい信仰・宗教だといえます。

 

教師と()(きょう)―Q&A―

 (ひん)()の多い質問ながら最近頂いたのは、

【神理教の教師になるには、(しゅう)()を神理教に改めねばならないのですか?】でした。

 ()(きょう)とは、現在仏教やキリスト教など他教で葬儀等を行ってきたものを、神道(人間本来の道)である(ほん)(きょう)(かい)(さい)(=(かい)(しゅう)(かい)(きょう))することです。

 この改祭(=改宗・改教)を本教では『日本人・人間本来の教えに帰る』という意味で『帰教』と呼びます。

 筆者は次のようにお応えしました。

【神理教の教師になると、免許状等と共に”()(しん)(ぽう)”が(さず)けられ、一層ご自身だけでなく信者さんの祓いを行うことが出来ます。

 神理教の教えが本当に理解出来れば、帰教へ心が動くのは自然だと思われますが、絶対の必要条件とはしていません。

 各人の事情を(かん)(あん)するからです。

 逆にいくらご本人がそうしたいと言われても、特にご両親を説得出来ないままに改祭(宗旨を改める)することは、お(すす)めしません。

 お心の底に、そうした事(本当の信仰のあり方)を踏まえておいて頂きたい、ということです。

 現実にも本教の教師が皆神理教の教徒≠ニいうことではありません。宗旨は別でも()(しん)()をお(しず)めする(しん)()=A木や紙の神札をお鎮めし信仰は神理教という信者≠ウんがおられます。

 せめて信徒∴ネ上であれば、とりあえず認可されています。

 

宗教団体の名前で信仰をするのではない

 (しゅう)()()え等については、本気で検討される時に所属の教会・教師や大教庁にご相談下さい。

 昨日ドラフト指名を待つ高校生が、

ユニホームで野球をするのでなく、投げるのは自分」というふうに言っていました。信仰も、

宗教団体の名前で信仰をするのではなく、行うのは自分である」と思います。

 日本の仏教徒の場合、ご先祖が自分で仏教を選んだのではなく、江戸時代の(てら)(うけ)(せい)()で無理矢理選ばされた家がほとんどであるのは、歴史を振り返れば分かることです。

 帰教の場合のご先祖への報告祭の手順等ありますが、教師を希望されるにあたっても決して(あわ)てる事はありませんし、こちらから無理強いなどすることはありませんのでご安心下さい。】

 応答の後半の部分が今回の主題です。

 

火葬場葬

先ほども触れたように、現代社会はまず信仰への興味やその文化が失われつつありますが、葬儀ぐらいは宗教団体に頼るということのようです。

江戸期以前の葬儀は、信仰の文化を保ちつつ、大方の葬儀は家主が行うものであったようですから、前後がそれぞれ逆転した(かん)があります。

近年は葬儀を宗教団体に頼る習慣だけは残っているようですが、それも将来に渡り安定しているかは分かりません。

最近は火葬場葬≠ニいうものが増え、火葬式に葬儀を兼ねて簡易に行い、場合によってはお(こつ)≠烽サの場で処分すると聞きます。

それは既成宗教や葬儀場の葬儀単価の高額化や、いわゆる貧困層の増加にも関連するようです。

お墓も要らず安上がりで時間も掛からないということで、良いことずくめに感じられるのでしょうか。

 お墓とお骨≠ノついての教義がない宗教に、こうした流れを食い止めるのは難しいのかもしれません。

 本教は小さな教団ですから社会への影響力は少ないでしょうが、お墓≠ヘ(あら)(みたま)が鎮まる大切な場所です。

 お(こつ)≠ヘ自分のご先祖の鎮まる土に(かえ)る事が霊魂の落ち着きに繋がるのですから、その鎮め場所であるお墓≠ヘ大切なものです。

 こうしたところを(おこた)ると、ある部分では自分や家族の怒りを制御出来ず、反面やる気・積極性・意欲に欠けることになるのです。

 

家・自分で決める

江戸期以前の民衆のほとんどが葬儀式も自分たちの生活の一部であると認識していたことは、歴史や生活様式を調べると容易に分かることでしょう。

現代の葬儀を宗教に頼る人は、頭から葬儀は宗教者が行うものであり、葬儀式は自分たちの普段の生活から切り離された行為だと思い込んでいるようです。

何故思い込むようになったか。

少しここに踏み込んで振り返ると、何事においても人間本来の自主の気構えが生まれてきます。

日本人は江戸幕府の巧妙な皇室との(かい)()((そむ)き離れる)作戦にまんまとはまり込み、明治から百四十年たった今でもその(じゅ)(ばく)から(のが)()ていないのです。

(もち)(ろん)宗教のみでなく、多分野において私達はそうした(へん)(けん)()らわれて、まだ真実の見えてない部分が多くあるように思います。

それを取り祓い家・自分で決める力を(つちか)うには、やはり人間が本来歴史の知恵として受け継いできた、古神道の教えと神徳に頼るべきなのです。


季節のことば    師走(しわす)

美しくも優れた日本語である、月の和名シリーズです。
弟子が師の家を走り回る(諸先生への挨拶回り)ことだ、という説があるように"忙しい!≠ニ身構える季節のように感じます。
師とは僧侶でそれらが走り回るほど忙しいという説と、実は師とは本来伊勢神宮や各地崇敬社の御師(神宮大麻や神札を配る祈祷師)でそれらが各家庭を巡る月という意味があります。
江戸中期の『日本歳時記』には『四極月』とあり、四時(=四季=一年)が極まる(=押し詰まる)月とあります。
また一年の総仕舞いの『仕極月』の説もあります。
異名も『極月(ごくづき)・限月・暮来月・暮歳・晩冬・黄冬・親子月・弟月・建丑月・氷月・臘月・春待月』等あります。
"忙中閑あり≠ナ時間を見付け・或いは作り、これらの字の意味でも考えながら、弛むひと時も大切にしましょう。