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                                                          2009−11

平成21年11月号 第1149号

        

H.21. 11月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 人は二度死ぬか?

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

人は二度死ぬ

本院(*注)(きょう)()(*注)(れい)(さい)(うかが)った(とき)に、()(しゅ)であ()(ぬし)(あい)(さつ)でこの言葉を使われました。

(きょう)()(しゅう)()神道神理教で、本教で(そう)()(れい)(さい)を行う家。

(れい)(さい)=亡くなった日から数えて(とお)()(ごと)五十日まで、また百日・穂見祭(お盆)・一・三・五・十年祭と神道式に行う(みたま)(まつり)

仏教では(ほう)()%凾ニいう。

 お話の内容は、

『人は二度死ぬと言われます。

一度は死んで命が無くなる時、二度目というのはその人の事を覚えて居る人が誰もいなくなる時です。

人は死んでも(のこ)された者の心の内に生き続け、誰からも忘れ去られた時又は思い出してくれる者がいなくなった時、再び今度は永遠に死ぬのだという事です。

だから私達は今日お祭りしたご先祖のことを、これからも大切に思って忘れないようにしましょう。』ということでした。

故人を思いやる暖かいお言葉だと感じ入りました。

少し暗さのようなものも感じますが、後で調べてみると、この言葉が好きだという人も結構多いと聞きました。

 

OO7は二度死ぬ

 余談の題にするのも少し恥ずかしいのですが、筆者の世代(昭和30年代以前)は《二度死ぬ》という言葉に(びん)(かん)な人が多いのではないかと思います。

小見出しはスパイ映画OO7シリーズの一作の題名ですが、刺激的な言葉なだけにきっと覚えておられる方も多いことでしょう。イギリスの(ちょう)(ほう)()(いん)(スパイ)が活躍する娯楽映画のこの一作は、特に日本を舞台としているだけに沢山の人に見られたようです。

 パソコンのインターネットで調べると、昭和四十二(1967)年6月に上映開始だったそうです。

 筆者は当時まだ十二才にもならないので、大人向けの映画は看板や予告編でしか見ることが出来ませんでした。こうした記憶のある方は、《二度死ぬ》の言葉に敏感ではないのかなと想像したところです。

しかし()()二度死ぬ》のかは、映画を見てない筆者にはずっと不思議に思っていたことで、(いっ)(そう)(せん)(めい)に記憶に残っていたのでした。

 四十年以上の昔のことを今思い出し、調べてみて分かったことは二つでした。

 一つは原作の小説は主人公のスパイであるジェームスボンドが、失敗を繰り返していたことからの起死回生の仕事であったことです。

 二つは映画ですからもっと分かりやすく、(いっ)(たん)(いん)(ぼう)で殺されたと思われていた主人公が実は生きていた、ということだそうです。

 筆者もやっと少年時代の胸のつかえが取れました。

 

人は死んでも心の中で生き続けるか

 (ぼう)(とう)(れい)(さい)でのお話を、本教の教えと比べてみます。

 まず『人は死んでも心の中で生き続ける』というのは、(あた)たらずと(いえど)(とお)からず≠ニいう感じです。

 はっきりとした(れい)(こん)(かん)を持たないながら、人生の経験から導かれた結論の一つと言えるでしょう。

 確かに()(じん)の事を思い出すことが出来るというのは、『心の中で生き続ける』と同意に受け止められます。

 人によっては大変大切な人で、()(ろく)()(ちゅう)思い出さないことはない場合もあるのかもしれません。

 しかしたいていの場合夢などは別にして、思い出そうとするから思い出すものです。

 それでも思い出せる間は『心の中で生き続ける』と言えるのかもしれませんが、これも場合によっては思い出したくない時もあるかもしれません。

 思い出した時が生≠ナ思い出したくない時が死≠セ等と考えると、『心の中で生き続ける』事の不安定さを感じます。『心の中で生き続ける』というのは、気休め的な言葉に感じるのです。

 (とお)からずの部分がいくら多くても、元が少しでも違えば結果は大きくずれることになるものです。

 次にお話ししますが、人は二度死ぬ》かについても、(おの)ずから違いが出てきます。

 

(れい)(こん)(ゆく)()

 本教は(れい)(こん)(かん)がはっきりとしていますから、死後(たましい)がどこへ行くか、また生きている人の心にどう働くか等、大変明解です。

 そこで本教流に比較させてもらえば、霊魂は遺族や友人が覚えていようといまいと、そのことによって存在を左右されることなどありません。

『心の中で生き続ける』というのはその人にとっての生≠感じるものですから否定はしませんが、()(めつ)の魂はそれとは別の場所で生きているといえます。

 (もち)(ろん)忘れずに覚えてくれることは有り難いことですが、生きている人の記憶によって生きる・死ぬ等という、言わば軽い存在とは(とら)えないのです。

 (れい)(こん)(ゆく)()はいつもお話しする事ながら、(さき)(みたま)はご先祖の大元である神の国・(てん)(ざい)(しょ)(じん)(本院)()(もと)に、(にご)(みたま)(うぶ)()()(おお)(かみ)((うぶ)(すな)(じん)(じゃ))の身許に行きます。

そして共に生前()した善いことを()めて戴きます。

 (あら)(みたま)は骨に()いてお墓に、(くし)(みたま)(*注)(れい)()()いてその家の霊殿にお鎮まりになるのです。

(れい)()()(じん)(くし)(みたま)(しず)める(より)(しろ)。仏教の()(はい)のようなもの。

 その働きは、(さき)(みたま)は他の(さん)(こん)との連絡・調整、(にご)(みたま)は喜び・笑う時に現れながら荒ぶる心を静め(なご)める働きをします。(あら)(みたま)(いか)り・(うら)み・(かな)しみ等の時に現れながら勇気・積極性を持ち、(くし)(みたま)は夢で(しん)()と通じつつ知恵を使う等の働きをします。このように(ひと)()(いち)(れい)()き、一霊は()(こん)に分かれ、四魂はそれぞれの働きを持ちながら、ある時は一つにある時は四魂に分かれて子孫をお守りするのです。そのお守りするという役割・行為を、生き(存在)()()・喜びとするものなのです。

 また子孫を見守るべき霊魂が、他の生き物や人間に生まれ変わることはありません。

 

人は二度死ぬか

 こうした霊魂の働きについて考えた時、生きている人の感情のみで霊魂の生き死に等、左右されるものでないことがご理解頂けることと思います。

人はもし死んでもこのような魂の働きを持って子孫を見守りつつ、ずっと存在し続けるものです。

忘れられたからといって存在が無くなる《二度死ぬ》ことはない、と本教では考えます。

死を自分から見るか、神の(ことわり)から見るかで結果はこのように大きく変わってきます。

しかし決して亡くなった人の事を忘れてもよい、と言っているわけではありません。

神道では『生は死に優先する』という言葉がありますが、それは生きている人こそが亡くなった人の祭りを形として(ほう)()出来るからです。

ご先祖の祭りをすることによって、もしその霊魂にまだ罪穢れが残っていても祓うことが出来るし、無ければ一層輝かすことが出来るからです。

それによって、また私達生きている者への神祖の御神徳が戴け、御神徳を戴き幸せになることによってまたご先祖は喜ばれるのです。

その意味では、生きている者はご先祖と家族との幸・不幸を別ける鍵を握っているといえる意味で『優先』といわれるのでしょう。

私達の(こころ)()けがご先祖の幸・不幸、引いてはそれが私達の幸・不幸、また(ひるがえ)ってご先祖のそれへと繰り返し(つな)がって行く(もと)なのです。

忘れようが忘れまいがあなたの()(って)ではなく、他人は自由であろうとも子孫として忘れてはならないものといえます。

その意味でも、忘れたり覚えている人がいなくなったりした時に二度目の死が(おとず)れるのではなくて、子孫は忘れないようにし且つ語り継ぐべきだといえます。

その語り継ぎを形にしたものが(せん)()(まつ)り、(すなわ)(れい)(さい)なのです。

 

(うぶ)()(ねの)(かみ)になって戴く

 人は肉体として死ぬことはあっても(たましい)(ほろ)びることはなく、死後も子孫を見守る喜びを得るところに存在の価値を見いだすべき、というのが本教の教えです。

 その為に私達は祭りを行うのであり、信仰の具体的な目的の大半もここにあるといえます。

即ち、ご先祖の霊魂の安定と罪穢れの解除を祈り、私達も神祖の徳を受けられるように同じく霊魂の安定と罪穢れの解除を願うのです。

神→祖先→私(家族)→子孫への神徳の通り道を()き固め、敷き広げることなのです。

先祖祭りを正しく行うことにより、ご先祖には死後五十年祭を迎えると共に一段高い(うぶ)()(ねの)(かみ)となられ、永遠の命を以て子孫を守る幸せを得られるのです。

だから人は二度死ぬことはなく、永遠に霊魂として生きるのです。






季節のことば 
                 霜月(しもつき)

美しくも優れた日本語である、月の和名シリーズです。
霜がたくさん降るので霜降り月と言っていたのが、略してこの名になった、と平安末期の歌学書『奥儀抄』にあるようです。
また、だいたい陽暦の十二月にあたっていたことから、『末つ月・凋む月』、又『食物月(食べ物が美味しい・冬に備えて貯める?)』が訛ったものとする説もあります。
異名も『霜見月・雪待月・神楽月・神帰月・建子月・子月・天正月・陽復・竜潜月・辜月』など多数あり、それぞれの意味を考えると楽しいですね。
年末の慌ただしさに至る前の“山眠る冬”も深みゆく季節で、冬の季節に入ったことをしみじみと味わう日々が続く、とあります。
考えてみれば忙しい一年の中でも、束の間のホッと出来る月なのかもしれませんね。