背景色が選べます!


                                                          2009−10

平成21年10月号 第1148号

        

H.21. 10月号

自然(おのずから)(みち)   管長 巫部(かんなぎべ)(さち)(ひこ)

 神の()(いき)

 

(神理教を“本教(ほんきょう)”と記します)

(ちょう)()

・神の息と人の息

朝拝時(*注)(ちょう)()の元が頭に浮かびました。

(ちょう)()=和歌の一体。()(しち)調を反復して重ね、終末を多く七・七とするもの。普通はその後に(はん)()(かえしうた。長歌の後に詠み添える短歌。長歌の意味を反復・補足又は要約するもの、一ないし数首からなる)を伴う。

 (せん)(がく)()(さい)()じながら()(れつ)(まい)稿(こう)します。

(おお)(もと)( ) (かみ)()(いき)は (つよ)(かぜ) ()くが(ごと)くに

(みずか)らの (つみ)()()()も ()(まま) (つみ)()せにし

()()()に (つみ)()ては (ぬく)もりの (のこ)れる()()

(けがれ)なる (つみ)()きなり (ひと)()()()も (けがれ)()きなり

(てん)(ざい)(しょ)(じん)(よる)(ひる)(さん)(ぱい)(しゃ)(じん)(かく)(ひん)()(など)()(べつ)()く、強い風が吹くように・(たい)()が水を流すように、(あふ)れるような御神徳を(たまわ)り・(つみ)(けが)れを(はら)って下さいます。

その御神徳は衣食住や心身の病気災難への安心だけでなく、安心を戴く条件となる罪穢れの祓いを本人が気付き祈れば、()かれた罪穢れは直ぐに祓われます。

その祓いは(またた)()であり、自分が()いたばかりの温もりのある息にまだ穢れがあると思うのは間違いで、直後に吸い直してもその息に(けがれ)となる{=(しん)()()らす}罪は無いのです。神前に祈る人の吐く息は、一瞬にして罪穢れのないものとなるのです。)

・神の風と自然の風

(わか)(みや)( ) (かみ)()(かぜ)は (うつし)()の (かぜ)には(あら)

(とど)(こお) (ひと)()()()も ()(まま) (きよ)めらるなり

()()()の (きよ)められては (けがれ)しと (おも)える()()

(けがれ)()き (きよ)(いき)なり (いき)()にして (あか)(いき)なり

(このように()(わか)(みや)(すなわ)ち神の世界から神前を通して吹く、目に見えず体にも感じない(かみ)(かぜ)は、(もち)(ろん)自然現象としての風とは似ていても本質が違います。

(いっ)(けん)(とどこお)って()(けつ)()(えい)(せい)に感じる他人の息も、自然の風に吹き(はら)われずとも、そのままにして神の風(=(しん)())に吹き(はら)われているのです。

従って神気に吹き祓われた人の息は(すで)にそのまま清められているのですから、物理的には不潔・不衛生に感じられても(しん)(れい)の本質として罪穢れはありません。

神の(ほん)(げん){=その言葉の持つ本来の意味}である(いき)(){=}の隠すところのない()(ごころ)であり、神と同じ清々しい息に変質しているのです。)

(つど)いと呼吸の(きょう)(めい)

(ひと)(さわ) (つど)うこそ() (ひと)(さわ)に (つど)(いの)れば

(いや)(たか) (たか)(みい)()は (ざる)(かご) (いも)(みが)(ごと)

(はい)殿(でん)の ()()(みが)(ごと) (しん)(しん)は ()みわたるなり

(みな)(みな) (つみ)()()()も (たちま)ちにして (きよ)めらるなり

(神への祈りの為に人が沢山集まるのは、大変素晴らしい事です。人が沢山集まって神への祈りを捧げるならば、神はその(とうと)くも(すぐ)れた威力を発揮されます。

それは、まるで(いも)()れた(ざる)(かご)()(まわ)すとお互いに()()って皮がむけ()(れい)な実となるように、拝殿を笊籠として私達の(れい)(こん)(みが)かれて綺麗に()むのです。

それ(*注)(しち)(ざい)を祓(*注)(はっ)(とく)(*注)(よん)(とく)(*注)(しん)(だい)(じん)(かく)(えい)(ぞく)等の徳が磨かれることでもあり、心身は(ここ)()()(せい)(めい)となるのです。

(しち)(ざい)(おこたり)(いつわり)((いつわり))(むさぼり)(いきどおり)(たかぶり)(うれい)(うらみ)

(はっ)(とく)(けん)(こう)(せい)(じつ)(いん)(とく)()(しゃ)(ろう)(えき)(あい)()(こっ)()()(はく)

(よん)(とく)(きよし)(あかし)(ただし)(なおし)(命令・心)(じん)()(ちゅう)(こう)(行動・(じっ)(せん))

(しん)(だい)(じん)(かく)(えい)(ぞく)=財産・人柄・子孫

そうなれば、一人の息に罪穢れが無いのと同じで、沢山の人の吐く息も徳こそ集まっても、(みな)(たちま)ちに清められて自他の罪穢れを吸う事はありません。

沢山の人の祈りによって一層清められた、有り難い(しん)()を吸う事になるのです。)

 

(はん)()(かえしうた)

・神の風と自然の風

(かみ)(かぜ)  ()()(かぜ)とは  (こと)なりて

        (けん)(ゆう)(いっ)(かん)  ()(わた)るなり

(神から戴く風(すなわ)ち神徳は、木々を吹き抜ける自然現象としての風と似ていても、本質が違います。

それは(うつし)()(かくり)(){(かみ)()}の両方を一貫して吹き渡る・常に流れて(とどこお)る事のない・罪穢れを祓い神徳を与える・強く大きく・(れい)(みょう)()()()()(かみ)(かぜ)なのです。)

 

()(こと)(()())

 ()(ちから)は  (たちま)(つみ)を  (はら)うなり

(こころ)()きなく  (いき)()くべし

(私達は普段から(ゆくり)(なく){気付かない内に}(おか)した(つみ)(けが)れを、これも気付かない内に()()っているものです。

普段の生活習慣の中で(はら)≠ニいう信仰の文化≠失った現代人は、その罪穢れが沢山()まっている事にも気付く人が減っています。

神は祈り願えばそうした罪穢れを祓い除いて下さる(ゆい)(いつ)の存在です。

そこで神前では遠慮せず自分の()()う目に見えない罪穢れを、呼気に乗せて思い切り吐き出すべきです。

大元の神に比べ人の小さな神霊を包む罪などは、天在諸神の前に一瞬にして()()せてしまうのです。

悪い物は吹き祓われ、善い物はお返し下さいます。

ですから、心置きなく自分の心身に付く全てを神前に払い放つ気持ちで、腹の奥底の罪穢れから吹き出す意気込みで吐き出しなさい。)

 

()(こと)((きゅう)())

()()せし  (つみ)(たちま)ちに  ()せぬれば

(こころ)()きなく  ()()()うべし

(自分の心身に()くう(あっ)()を全て吐き出し、同時に集まった沢山の人が同じように悪気を吐き出したからと言って、神前にその悪気が(とどこお)る事はありません。

天在諸神の(ばく)(だい)な神気は清々しい神風を以て一瞬にして万人の悪気を祓い、その場は沢山の人の祈りが(かも)し出した神気の満ちる場となるのです。

ですから、安心してその場に満ちる大いなる神気を吸いなさい。)

 

(つみ)(けが)(はら)、仏教・キリスト教との違い

 ここにある『(つみ)(けが)(はら)』を少し説明します。

(つみ)』の(ほん)(げん)(=その言葉の持つ本来の意味)は、『(つつ)み・(かく)す』という二つの言葉から成り立っています。

(つみ)』とは(すなわ)ち、《人に言われないような善くない

ことを心に(つつ)(=(かく))持ち続けることにより、それらが腐敗した状態》を言います。

(けが)』の本言は、『()()れる』という二つの言葉から成り立っています。

(けが)とは(すなわ)ち、《人の霊魂に先の(つみ)』がまとわり付くことにより、本来戴けるはずの神祖からの気{=御徳}()(がい)される状態》を言います。

(はら)』の本言は、『()(あら)せ』という二つの言葉から成り立っています。

(はら)とは(すなわ)ち、《神の(ぶん)(れい){小さな神}である人の(れい)(こん)(おお)っていた(つみ)』が取り除かれ、その分霊が太陽が雲間から出るように(あら)われる状態》を言います。

 この三つの言霊の教えは仏教の(ごう)やキリスト教の(げん)(ざい)等、他宗と比べ深い意味があります。

神の(ことわり)を知り懸命に祈れば、個人・家・人類の罪といえども祓われない罪はない≠フです。

本教は(おど)しや(あきら)めから入るのではなく、(けん)(ゆう)(いっ)(かん)した()(よう)を伝え、希望と勇気を(もたら)す教えと言えます。

 

(こく)(がく)(こと)(だま)(がく)と御教祖

(こく)(がく)』は()(だの)(あずま)(まろ)()(もの)()(ぶち)(もと)(おり)(のり)(なが)(ひら)()(あつ)(たね)((よん)(たい)(じん))等が有名ですが、仏教や儒教などが入って来る以前の日本独自の文化・習慣・信仰を研究するものです。

(こと)(だま)(がく)』は()()(=中国)伝来の漢字≠ナ日本語を伝える内に、漢字≠フ意味に気を取られて変化し失われた日本語本来の意味を取り戻す学問です。

(ほん)(げん)』は(こと)(だま)(がく)の手法で、共に(こく)(がく)に含まれます。

『御教祖』はその学問の上でも『国学』と『巫部家に伝わる古神道の教え』を比較研究され、近代日本の第一人者でもあります。

 

神の御息を戴く心構え(ちょう)()(きゅう)(ほう)

 長歌・反歌とその解説で述べたように、自分の罪を吐き出す事に神前での遠慮は要りません。

 本人としてはこれ以上ない大きな罪であると思っていても、又それが何万人いても神の息吹の一息で消え失せてしまうのです。

 又息を吸う時に自分や他人の罪を吸い直すなど考えず、安心して思い切り吸い込むのがよいのです。

 こうした心構えになれる事が、天在諸神への信仰の(たま)(もの)といえます。

まず(がっ)(しょう)して(いん)(よう)()わせ→(ひじ)(ひら)(きょう)(かく)()(どう)(たも)ち→口から全ての汚れた息を吐き→鼻から戴き吸った(しん)()(たん)(でん)(=腹の奥底)に満たし→満たした腹に力を()め→(しん)()を全身に行き渡らせるのです。

これは体を健康に保つと共に御神徳を戴く、本教に伝わった(ちょう)()(きゅう)(ほう)(ごく)()です。

秋の大祭には神の御息を多数の参拝の皆様と共に(いただ)き、(あじ)わう喜びを楽しみに御帰院下さい。


 
季節のことば

     寒露(かんろ) 
10月8日頃(今年も8日) 


 神無月は前年行ったので、今月の和名シリーズはお休みです。
 寒露は二十四節気の一つで、秋分から15日目にあたります。
*二十四節気=太陽の黄経(地球から見て太陽が地球を中心に運行するように見える黄道を24等分して、春分点{赤道との交点}から測った角距離)に従って季節を示すのに用いる中国伝来の語。
 秋が深まり、冷たい空気にあたった露が凝結して霜になろうとすることなので『寒露』というそうです。
七十二(候)÷二十四(節)=三で、一節は更に三候に別れます。
寒露の三候(日本の解説)は、初候(鸛雁来る)・二候(菊花開く)・三候(蟋蟀戸に在り)となります。
10月8日から5〜6日間の各候に、鸛や雁が渡来し→菊の花が開き→蟋蟀が出て来て鳴き出す、と季節が進むのです。
 この清々しい季節に前後して、本院や教会の秋季大祭があります。是非御参拝され大きな御神徳をお受け下さい。