H.21.
10月号
自然の道 管長 巫部祐彦
神の御息
(神理教を“本教”と記します)
長歌
・神の息と人の息
朝拝時に長歌の元が頭に浮かびました。
*長歌=和歌の一体。五七調を反復して重ね、終末を多く七・七とするもの。普通はその後に反歌(かえしうた。長歌の後に詠み添える短歌。長歌の意味を反復・補足又は要約するもの、一ないし数首からなる)を伴う。
浅学・非才を恥じながら羅列・埋稿します。
大元の 神の御息は 強き風 吹くが如くに
自らの 罪吐く呼気も 在る随に 罪は失せにし
吐く呼気に 罪の失せては 温もりの 残れる呼気も
穢なる 罪は無きなり 人吐く呼気も 穢無きなり
(天在諸神は夜昼・参拝者の人格・貧富等に区別無く、強い風が吹くように・大河が水を流すように、溢れるような御神徳を賜り・罪穢れを祓って下さいます。
その御神徳は衣食住や心身の病気災難への安心だけでなく、安心を戴く条件となる罪穢れの祓いを本人が気付き祈れば、吐かれた罪穢れは直ぐに祓われます。
その祓いは瞬く間であり、自分が吐いたばかりの温もりのある息にまだ穢れがあると思うのは間違いで、直後に吸い直してもその息に穢となる{=神気を枯らす}罪は無いのです。神前に祈る人の吐く息は、一瞬にして罪穢れのないものとなるのです。)
・神の風と自然の風
若宮の 神の御風は 現世の 風には非ず
淹滞る 人吐く呼気も 在る随に 清めらるなり
吐く呼気の 清められては 穢しと 思える呼気も
穢無き 清き息なり 息持ちにして 明き息なり
(このように日の若宮即ち神の世界から神前を通して吹く、目に見えず体にも感じない神風は、勿論自然現象としての風とは似ていても本質が違います。
一見滞って不潔・不衛生に感じる他人の息も、自然の風に吹き払われずとも、そのままにして神の風(=神気)に吹き祓われているのです。
従って神気に吹き祓われた人の息は既にそのまま清められているのですから、物理的には不潔・不衛生に感じられても神霊の本質として罪穢れはありません。
神の本言{=その言葉の持つ本来の意味}である息持ち{=神}の隠すところのない真心であり、神と同じ清々しい息に変質しているのです。)
・集いと呼吸の共鳴
人沢に 集うこそ善し 人沢に 集い祈れば
弥高に 高き神威は 笊籠の 芋磨く如
拝殿の 人徳磨く如 心身は 澄みわたるなり
皆々の 罪吐く呼気も 忽ちにして 清めらるなり
(神への祈りの為に人が沢山集まるのは、大変素晴らしい事です。人が沢山集まって神への祈りを捧げるならば、神はその尊くも優れた威力を発揮されます。
それは、まるで芋を入れた笊籠を掻き回すとお互いに擦れ合って皮がむけ綺麗な実となるように、拝殿を笊籠として私達の霊魂は磨かれて綺麗に澄むのです。
それは七罪を祓う八徳・四徳、又身代・人格・永続等の徳が磨かれることでもあり、心身は心地良く清明となるのです。
*七罪=怠・詐(嘘)・貪・憤・慢・憂・怨
*八徳=健康・誠実・陰徳・施捨・労役・愛他・克己・自白
*四徳=清・明・正・直(命令・心)、仁・義・忠・孝(行動・実践)
*身代・人格・永続=財産・人柄・子孫
そうなれば、一人の息に罪穢れが無いのと同じで、沢山の人の吐く息も徳こそ集まっても、皆忽ちに清められて自他の罪穢れを吸う事はありません。
沢山の人の祈りによって一層清められた、有り難い神気を吸う事になるのです。)
反歌(かえしうた)
・神の風と自然の風
神の風 木の間の風とは 異なりて
顕幽一貫 吹き渡るなり
(神から戴く風即ち神徳は、木々を吹き抜ける自然現象としての風と似ていても、本質が違います。
それは現世と幽界{神世}の両方を一貫して吹き渡る・常に流れて滞る事のない・罪穢れを祓い神徳を与える・強く大きく・霊妙不可思議な神の風なのです。)
・吐く事(呼気)
神徳は 忽ち罪を 祓うなり
心置きなく 息を吐くべし
(私達は普段から不意{気付かない内に}犯した罪穢れを、これも気付かない内に背負っているものです。
普段の生活習慣の中で祓い≠ニいう信仰の文化≠失った現代人は、その罪穢れが沢山溜まっている事にも気付く人が減っています。
神は祈り願えばそうした罪穢れを祓い除いて下さる唯一の存在です。
そこで神前では遠慮せず自分の背負う目に見えない罪穢れを、呼気に乗せて思い切り吐き出すべきです。
大元の神に比べ人の小さな神霊を包む罪などは、天在諸神の前に一瞬にして消え失せてしまうのです。
悪い物は吹き祓われ、善い物はお返し下さいます。
ですから、心置きなく自分の心身に付く全てを神前に払い放つ気持ちで、腹の奥底の罪穢れから吹き出す意気込みで吐き出しなさい。)
・吸う事(吸気)
吐き出せし 罪忽ちに 消せぬれば
心置きなく 神気を吸うべし
(自分の心身に巣くう悪気を全て吐き出し、同時に集まった沢山の人が同じように悪気を吐き出したからと言って、神前にその悪気が滞る事はありません。
天在諸神の莫大な神気は清々しい神風を以て一瞬にして万人の悪気を祓い、その場は沢山の人の祈りが醸し出した神気の満ちる場となるのです。
ですから、安心してその場に満ちる大いなる神気を吸いなさい。)
罪・穢れ・祓い、仏教・キリスト教との違い
ここにある『罪・穢れ・祓い』を少し説明します。
『罪』の本言(=その言葉の持つ本来の意味)は、『包み・隠す』という二つの言葉から成り立っています。
『罪』とは即ち、《人に言われないような善くない
ことを心に包み(=隠し)持ち続けることにより、それらが腐敗した状態》を言います。
『穢れ』の本言は、『気・枯れる』という二つの言葉から成り立っています。
『穢れ』とは即ち、《人の霊魂に先の『罪』がまとわり付くことにより、本来戴けるはずの神祖からの気{=御徳}が阻害される状態》を言います。
『祓い』の本言は、『日・顕せ』という二つの言葉から成り立っています。
『祓い』とは即ち、《神の分霊{小さな神}である人の霊魂を覆っていた『罪』が取り除かれ、その分霊が太陽が雲間から出るように顕われる状態》を言います。
この三つの言霊の教えは仏教の業やキリスト教の原罪等、他宗と比べ深い意味があります。
神の理を知り懸命に祈れば、個人・家・人類の罪といえども祓われない罪はない≠フです。
本教は脅しや諦めから入るのではなく、顕幽一貫した有り様を伝え、希望と勇気を齎す教えと言えます。
国学と言霊学と御教祖
『国学』は荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤(四大人)等が有名ですが、仏教や儒教などが入って来る以前の日本独自の文化・習慣・信仰を研究するものです。
『言霊学』は支那(=中国)伝来の漢字≠ナ日本語を伝える内に、漢字≠フ意味に気を取られて変化し失われた日本語本来の意味を取り戻す学問です。
『本言』は言霊学の手法で、共に国学に含まれます。
『御教祖』はその学問の上でも『国学』と『巫部家に伝わる古神道の教え』を比較研究され、近代日本の第一人者でもあります。
神の御息を戴く心構えと長呼吸法
長歌・反歌とその解説で述べたように、自分の罪を吐き出す事に神前での遠慮は要りません。
本人としてはこれ以上ない大きな罪であると思っていても、又それが何万人いても神の息吹の一息で消え失せてしまうのです。
又息を吸う時に自分や他人の罪を吸い直すなど考えず、安心して思い切り吸い込むのがよいのです。
こうした心構えになれる事が、天在諸神への信仰の賜物といえます。
まず合掌して陰陽を合わせ→肘を開き胸郭の気道を保ち→口から全ての汚れた息を吐き→鼻から戴き吸った神気を丹田(=腹の奥底)に満たし→満たした腹に力を籠め→神気を全身に行き渡らせるのです。
これは体を健康に保つと共に御神徳を戴く、本教に伝わった長呼吸法の極意です。
秋の大祭には神の御息を多数の参拝の皆様と共に戴き、味わう喜びを楽しみに御帰院下さい。